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和歌を読む2――「古今和歌集」

 前回「万葉集」をざっくりと読んだので、今回は古今和歌集を読みたいと思います。(私がどういうスタンスで読んでいるのかは文学史を復習したエントリー(→こちら)をご覧ください。素人が和歌の勉強もしたことないのに、いきなり読んであれこれ言ってみる、というものです。)

*途中で投げ出してます。あしからず。


■基本情報
 奈良・平安初期は弘仁・貞観文化にみられるように中国の文化が強く影響した時代であった。この時代は漢詩文が全盛で最初の勅撰漢詩文集『凌雲集』(814年)をはじめ、『文華秀麗集』(818年)、『経国集』(827年)など次々と勅撰漢詩集が作られた。『菅家文草』を作った菅原道真もこの時代の人である(845-903)。
 その後、徐々に日本独自の文化が作られるようになり、遣唐使の廃止(894年)もあり、10世紀初めごろから国風文化が芽生えだした。『古今和歌集』は後醍醐天皇による最初の勅撰和歌集として905年に成立した、まさにこの時期の詩集なのである。選者は紀友則紀貫之凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)、壬生忠岑(みぶのただみね)の四人。全20巻約1100首が、内容・主題によって春歌、夏歌、秋歌、冬歌、賀歌、離別歌、恋歌、哀傷歌など系統だって配列されている。四季の歌は季節の変化にそって、恋歌は恋愛の進展に沿って配列されるなど細かく気配りがなされている。冒頭には前回引用した紀貫之の「仮名序」が、末尾には紀淑望による漢文の序文「真名序」がおかれている。ちなみに、長歌5首、旋頭歌4首以外はすべて短歌である。
 『古今和歌集』では所収和歌の制作年代の150年間が3期に区分される。第一期は万葉集以後から9世紀前半までで、作者未詳歌の時代である。率直で素朴な歌風だが、繊細・優美な面の萌芽がみられるとされる。第二期は、9世紀後半の六歌仙の時代である。六歌仙在原業平小野小町文屋康秀大友黒主僧正遍昭喜撰法師)や素性法師大江千里藤原敏行などの活躍した時代で、豊かな情感、艶麗な情趣を詠んだとされる。掛詞や縁語が多様され、古今的歌風を確立した。第三期は9世紀末から成立年までの選者の時代である。選者の紀友則紀貫之凡河内躬恒壬生忠岑の他、伊勢、清原深養父坂上是則などが活躍した時代で、流麗・優美である一方、見立て、擬人法、序詞を多用し、観念的理知的な歌風とされる。

■仮名序

▲1.和歌の本質
紀貫之の書いた「仮名序」は、冒頭で「やまと歌」の本質についてふれる。

 やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。

 ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをもやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるは、うたなり。

 人の心を母胎として、心の動きが言葉になったものが和歌である。
 歌は目に見えないけれども、世界を、神を、人を動かす…と。


▲2.和歌の成り立ち
続いて、和歌の成り立ちについて述べる。

このうた、あめつちのひらけはじまりける時より、いできにけり。

あらかねのつちにては、すさのをのみことよりぞ、おこりける。ちはやぶる神世には、うたのもじもさだまらず、すなほにして、事の心わきがたかりけらし。ひとの世となりて、すさのをのみことよりぞ、みそもじあまりひともじはよみける。

とほき所も、いでたつあしもとよりはじまりて、年月をわたり、たかき山も、ふもとのちりひぢよりなりて、あまぐもたなびくまでおひのぼれるごとくに、このうたも、かくのごとくなるべし。

 このように世界の初め、神の世、人の世と年代順に和歌の成り立ちを語った上で、和歌の父母である難波津(大阪)の歌と安積山(福島県 額取山)の言葉を紹介する。

なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。

おほさざきのみかどの、なにはづにてみこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思て、よみてたてまつりけるうた也、この花は梅のはなをいふなるべし。


あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて

かづらきのおほきみをみちのおくへつかはしたりけるに、くにのつかさ、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、うねめなりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、あさか山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。


このふたうたは、うたのちちははのやうにてぞ、手ならふ人のはじめにもしける。

▲3.和歌の分類
その後、和歌を6つに分類する。

そもそも、うたのさま、むつなり。

そのむくさのひとつには、そへうた。おほささきのみかどを、そへたてまつれるうた、

なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな

ふたつには、かぞへうた

さく花におもひつくみのあぢきなさ身にいたつきのいるもしらずて

みつには、なずらへうた

きみにけさあしたのしものおきていなばこひしきごとにきえやわたらむ

よつには、たとへうた

わがこひはよむともつきじありそうみのはまのまさごはよみつくすとも

いつつには、ただことうた

いつはりのなき世なりせばいかばかり人のことのはうれしからまし

むつには、いはひうた

このとのはむべもとみけりさき草のみつばよつばにとのづくりせり

▲4.和歌の社会史


昔の和歌の詠われ方などを語る


▲5.批評

柿本人麻呂

かのおほむ時に、おほきみつのくらゐ、かきのもとの人まろなむ、うたのひじりなりける。これは、きみもひとも、身をあはせたりといふなるべし。秋のゆふべ、龍田河にながるるもみぢをば、みかどのおほむめに、にしきと見たまひ、春のあした、よしのの山のさくらは、人まろが心には、くもかとのみなむおぼえける。

 ここで柿本人麻呂の和歌を二首紹介している
・梅の花 それとも見えず ひさかたの あまぎる雪の なべてふれれば
・ほのぼのと あかしの浦の 朝霧に 島がくれゆく 船をしぞ思ふ


山部赤人

又、山のべのあかひとといふ人ありけり。うたにあやしく、たへなりけり。人まろはあかひとがかみにたたむことかたく、あか人は人まろがしもにたたむことかたくなむありける。

 赤人の和歌も同様に二首(以前このブログの「『万葉集』を読む」でも取り上げた)
・春の野に すみれつみにと こし我ぞ野を なつかしみ 一よねにける
・わかの浦に しほみちくれば かたをなみ 蘆辺をさして たづなきわたる


僧正遍昭

ちかき世に、その名きこえたる人は、すなはち、僧正遍昭は、うたのさまはえたれども、まことすくなし。たとへば、ゑにかけるをうなを見て、いたづらに心をうごかすがごとし。

 紹介される和歌は以下の三首
・浅みどり 糸よりかけて 白露を 玉にもぬける 春のやなぎか
・はちす葉の にごりにしまぬ 心もて なにかは露を 玉とあざむく
・名にめでて おれるばかりぞ 女郎花 われおちにきと 人にかたるな


在原業平

ありはらのなりひらは、その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花の、いろなくて、にほひのこれるがごとし。

 紹介される和歌は
・月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ わがみひとつは もとの身にして
・大かたは 月をもめでじ これぞこの つもれば人の おいとなるもの
・ねぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば いやはかなにも なりまさる哉


文屋康秀

ふんやのやすひでは、ことばはたくみにて、そのさま身におはず。いはば、あき人の、よききぬきたらむがごとし

・吹くからに 野べの草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ
・草深き かすみの谷に かげかくし てる日のくれし けふにやはあらぬ


−僧喜撰

宇治山のそうきせんは、ことばかすかにして、はじめ、をはり、たしかならず。いはば、秋の月を見るに、あかつきのくもにあへるがごとし。

・わが庵はみやこのたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり


小野小町

をののこまちは、いにしへのそとほりひめの流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめる所あるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし。

・思ひつつ ぬればや人の 見えつらむ 夢としりせば さめざらましを
・色見えで うつろふ物は よの中の 人のこころの 花にぞありける
・わびぬれば 身をうき草の 根をたえて さそふ水あらば いなむとぞ思ふ
・わがせこが くべきよひなり ささがにの くものふるまひ かねてしるしも


大友黒主

おほとものくろぬしは、【??????】そのさま、いやし。いはば、たきぎおへる山人の、花のかげにやすめるがごとし。

・思ひ出て恋しき時ははつかりの鳴きてわたると人はしらずや
・鏡山いざ立ちよりて見てゆかむとしへぬる身はおいやしぬると


けっこうばっさばっさ切ってて面白いです。


▲6.古今和歌集の成立について


▲7.むすび

それ、まくらことば、春の花にほひすくなくして、むなしき名のみ秋の夜のながきをかこてれば、かつは人のみみにおそり、かつはうたの心にはぢおもへど、たなびくくものたちゐ、なくしかのおきふしは、つらゆきらがこの世におなじくむまれて、このことの時にあへるをなむ、よろこびぬる。人まろなくなりにたれど、うたのこと、とどまれるかな。たとひ時うつり、ことさり、たのしび、かなしびゆきかふとも、このうたのもじあるをや。あをやぎのいとたえず、まつのはのちりうせずして、まさきのかづら、ながくつたはり、とりのあと、ひさしくとどまれらば、うたのさまをもしり、ことの心をえたらむ人は、おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも

■有名な歌人と歌

▲読み人知らず

木の間より もりくる月の 影見れば 心づくしの 秋はきにけり(4秋−184) 

枝の間からもれてくる月の光を見ると、いろいろ考えてしまう秋がきたのだと感じる。

ほとどぎす 鳴くや五月の あやめ草 あやめも知らぬ 恋もするかな(11春−469)

ほととぎすが鳴く五月に咲くあやめ草(菖蒲)、私はその「あやめ」(分別)も失って恋に落ちている

世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる(18雑−933)

世の中では不変なものなどあるだろうか。飛鳥川の昨日の淵が、今日の瀬に変わるように不変なものなどない。



 あまり和歌になれていない私でも、万葉集と比べて技巧が使われていることがみてとれます。
 「木の間より〜」は素直な歌で、万葉集にもありそう。月の光で、秋が来たことを感じるというそのままの歌。とはいえただの月ではなく、枝の間からもれてくる月明かりというところがきれいです。あまりこのような光景を感じたことがないですが、想像できます。それにしても「心づくしの秋」って、当時秋といえばそういうイメージだったのか、この人が秋に何かあったのか、ちょっとわかりません。
 「ほとどぎす〜」は「あやめ」をだぶらせて二重の意味で使っています。途中までは春の景色を詠ってると思っていたのに、突然恋の歌になって「おっ」て思いました。その転換にこのダブリをつかっているのでしょう。にしても、「あやめも知らぬ恋」って…なんだか懐かしい響きです。
 「世の中は〜」もかなり直接に世の無常を詠っているうたですが、飛鳥(明日)と昨日と今日をぎゅっとつめてなんだか言葉遊びっぽいです。私にはそんなに良い歌には思えませんが、無常観なるものが現れていて、かつ言葉遊びもあって、かつわかりやすいってことで評価されているんでしょうかね。


僧正遍昭(二期 六歌仙の一人)
 桓武天皇の孫で、素性の父。俗名は良岑宗貞で、仁明天皇崩御をきっかけに出家し比叡山に入る。

みな人は 花の衣に なりぬなり 苔の袂よ 乾きだにせよ(16-847)

人は皆、花のようにきれいな衣に着替えたという、私の苔の袂もせめて乾いて欲しい

はちす葉の にごりにしまぬ 心もて 何かは露を 珠とあざむく(3-165)

蓮の葉は濁った水でも汚れない心をもっているのに、なぜ露を珠と見せかけて欺くのだろう。


 「みな人は〜」は、詞書に「仁明天皇の時代、蔵人頭として昼夜問わず仕えていたが、諒闇となったので、世に混じらず比叡山にのぼって僧となった。その次の年、人々は喪服を脱ぎ、ある者は位を賜ったりするなど喪が明けたことを喜んでいると聞いて詠んだ」とあるように、慕っていた仁明天皇がなくなった悲しみを詠ったものです。花と苔を対比させているのでしょうが、私には悲しみに集中しているように思えなくてあまり好きではありません笑 「こんなに悲しいことなのにみんなケロっとしやがって」という思いが見え隠れして、だったらそっちを歌えばいいのにと思ってしまいます。
 「はちす葉の〜」は、蓮は清い心をもつはずなのに人をだますような美しさをもっていることを詠った歌と読んで良いのでしょうか。遠回しな花の美しさの表現ですが…。


*時間がある時に以下の歌を取り上げる予定です。
・浅みどり 糸よりかけて 白露を 玉にもぬける 春のやなぎか
・名にめでて おれるばかりぞ 女郎花 われおちにきと 人にかたるな



小野小町(二期 六歌仙の一人)

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに(2-133)

花の色は失せてしまった。春の長雨が降り、私がむなしく物思いにふけっていた間に。

色見えで うつろふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける(15-797)

色には現れずにあせるものは、世の中の人の心の花だ。

思ひつつ  寝ればや人の  見えつらむ  夢と知りせば  覚めざらましを(12-552)

あの人のこと想いながら寝たから夢に現れたのだろうか。夢とわかっていたら目覚めなかったのに。

うたたねに 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼み初めてき(12-553)

うたたねした時にあの人を見てから、夢に期待するようになった

いとせめて 恋しき時は むばたまの 夜の衣を 返してぞきる(12-554)

とても恋しい時には、夜の着物を裏返しにして寝ます


 有名な歌がいくつもある小野小町。雰囲気(音?)がきれいな歌が多いと思います。
 「花の色〜」は中学の時の国語の先生(女性)のお気に入りで良さを力説されたけれどもよくわからなかったことを憶えています笑 「ふる」(降る・経る)や「ながめ」(長雨・眺め)と掛詞が続いていて、長雨の間に花の色が失せてしまった、私が物思いにふけってる間に花の色が失せてしまったと二つの意味を組み込んでいます。物思いにふけっている間に花の色が失せただけでも十分歌になるのに、雨という景色まで入れ、しかも両者が意味の上でも、文字の上でもうまく重なってるという点で「すごい」とは思います。でも、やっぱり読みにくいなぁというのが正直な感想。上の句のすっきり、きれいな音に対して、「ながめせしまに」という音もなんだか私にはぎこちなく感じます。
 「色みえで〜」はこの中で一番好きな歌です。花は色が失せて見えるけれど、人の心は失せても色がみえない、という意味で、この「人の心」は恋心を指すととらえるのが普通のようです。しかし恋心と読まずとも、花の色が色あせるように、人の心も見えないうちに色あせていることがあるという風に読んでもおもしろいのではないでしょうか。ただ、「ぞ−ける」など使わずに、もっとさらっといってくれたほうがかっこよかったかなとは思います
 「思ひつつ〜」は技巧的には複雑ではなくわかりやすいです。上の句が「偶然」夢を見たことに驚き、喜んでいる様子なのに対し、下の句は残念がって、わかってたら目覚めなかったのにという「意志」がみえます。とはいえ、そんな強い意志ではなく、どこかほんわかしている雰囲気をもっているように感じられます。「うたたねに〜」はその意志について語っていますが、「いとせめて〜」では具体的に意志を行動にうつします。夜の着物を裏返しにして着ると夢で恋しい人に会えるという俗説があったようです。この三首は夢の三部作などと呼ばれることがありますが、彼女はこの夢関係の恋歌を大量に詠んでいます。古今和歌集以外ではいかのようなものがあります。

夢ならは また見るよひも ありなまし なになかなかの うつつなるらむ

夢でならまた逢えると思ったのに、なかなか思い通りにはいきません。

うつつにて あるたにあるを 夢にさへ あかてもひとの みえわたるかな

現実でもそうなのに、夢でさえ飽きずにあの人を見続けています

たのまじと 思はむとても いかがせむ 夢よりほかに あふ夜なければ

夢なんかに頼りたくない、と思ってもどうしたらいいのでしょうか。夢よりほかに逢う方法がないのに。


 「夢ならば〜」は続古今和歌集(1189)で、夢で逢うことすらそうそう叶うものではない切なさをうたっています。「うつつにて〜」も続古今和歌集(1188)で、夢で逢えたときはずっと見てしまうという歌。「たのまじと〜」は新勅撰和歌集(864)です。これらのうたを無理矢理つなげると次のようになるのではないでしょうか。現実ではまず逢うことのできない恋しい人と、たまたま夢で逢うことができた。それ以来、せめて夢で会いたいと思うようになり、俗説を信じていろいろ試したりもした。それでも願いどおり逢えることは稀で、逢えたときはずっと見てしまう。でも、本当はこんな夢になんか頼りたくない。それでもやっぱり頼らずにはいられない…。
 という感じでしょうか。



*時間がある時に以下の歌を取り上げる予定です。
・わびぬれば 身をうき草の 根をたえて さそふ水あらば いなむとぞ思ふ
・わがせこが くべきよひなり ささがにの くものふるまひ かねてしるしも


文屋康秀(二期 六歌仙の一人)

春の日の 光に当たる 我なれど かしらの雪と なるぞわびしき

春の陽光のような皇太子さまのお恵みを賜っている私だが、老いて髪が雪のように白くなるのが心細い。


 「春の日の〜」の詞書には「二条の后が東宮の御息所(皇太子の母)と呼ばれていた時(つまり貞明親王が皇太子の時代)の一月三日、康秀にお言葉をかけている時に、日が照っているのに雪が頭に降りつもってきたことを皇太子が詠ませた」とある。日を皇太子に、雪を白髪にかけた歌。「わびしき」はもっとふざけた調子で言っていたのかもしれません。にしても、大した歌には思えません笑


*時間がある時に以下の歌を取り上げる予定です。
・吹くからに 野べの草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ
・草深き かすみの谷に かげかくし てる日のくれし けふにやはあらぬ


在原業平(二期 六歌仙の一人)

世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし(1-53)

世の中に桜が全くなかったなら、春の人の心はのどかであっただろうに。

唐衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ(9-410)

着なれた着物のように長年親しんだ妻が都にいるので、かきつばたを見るとそれを思い出してしまい、はるばるやってきた旅がわびしく思われる。

月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして(15−747)

月は去年と同じではないのか。春は去年と同じ春ではないのか。私だけが元のままで。


 とても有名な「世の中に〜」の歌。山部赤人が桜が咲き続けたらこんなに恋しいと思わなかっただろうという歌を詠っていますが(万葉集8-1425)、業平は逆にそもそも桜がなければこんな心狂わせなかっただろうと言っています。個人的には、内容は赤人の方がおもしろいと思います。単にある/ないではなく、ある(けどなくなる)/ありつづける という微妙な対比を持ちだしているからです。ですが語感的には業平の方がきれいに聞こえます。どちらの歌も異性をうたったものとしても詠めます。no woman no cry…笑
 「唐衣〜」は訳をみて「どこにかきつばたなんて書いてあるんだ?」と思う方がいるかもしれません。この歌は万葉集にはおそらくなかった「折句」という凝った技を使っています。各句の頭文字をつなげると一つの言葉になる技術、要するに「あいうえお作文」です。すごいですよね。和歌の中でも「妻」と「褄」、「(服が)なれる」と「馴れる」の掛詞とか、着物に関する縁語(「つま」「なれ」「はる」)や、枕詞(「から衣」-「着」)に序詞(「から衣着つつ」-「なれ」)など、ものすごい。きれいに二つの意味も重なっていてとても「上手い」と思います。
 「月やあらぬ〜」は、前に関係をもった女性が引っ越して連絡が付かなくなってしまい、女性が元の住んでいた場所で詠んだ歌です。万葉集に真逆の、つまり月や春など自然のものは変わらないのに、自分だけ変わってしまったというのがあった気がします。いや、むしろそっちの方が自然でよく詠われるのでしょう。ここではあえて逆にして、自分だけあの時と同じ気持ちのまま(相手の気持ちは変化してしまった)ことを強調しているのでしょう。「あらぬ」や「や」、「春」、「身」など繰り返しが多いことがどのように効果しているのかちょっとよくわかりませんが、なんとなくリズミカルな気がします。


▲僧喜撰(二期 六歌仙の一人)

我が庵は みやこのたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人は言ふなり(18-983)

私は都の東南でこうして静かに住んでいる。しかし人は、私が世の中を憂いて宇治山に住んでいるというそうだ。


大友黒主(二期 六歌仙の一人)

思ひいでて 恋しき時は 初雁の なきて渡ると 人知るらめや(14-735)

昔のことを思い出して恋しい時は、初雁が鳴いて渡るように、私も泣いていることをあなたは知っているでしょうか

鏡山 いざ立ち寄りて 見てゆかむ 年へぬる身は 老いやしぬると(17-899)

鏡山に立ち寄って見て行こう。年をとったこの身が老いたかどうかを。


藤原敏行(二期)

秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる(4-169)

秋が来たと目にははっきり見えないが、風の音できづかされた

我がごとく ものやかなしき 郭公 時ぞともなく 夜ただ鳴くらむ(12-578)

私と同じように悲しことでもあったのか、ホトトギスが時間も気にしないで夜もひたすら鳴いている。


▲素性(二期)

見渡せば 柳桜を こきまぜて みやこぞ春の 錦なりける(1-56)

見渡すと、柳と桜が混ざり合って、都はまるで春の錦だ。

もみぢ葉は 袖にこき入れて もていでなむ 秋はかぎりと 見む人のため(5-309)

この紅葉は袖に入れて持って帰ろう。秋の終わりを一緒に見る人のために。


大江千里(二期)

うぐひすの 谷よりいづる 声なくは 春くることを 誰か知らまし(1-14)

ウグイスの谷から聞こえる声がなければ、春が来ることを誰が知ろうか

月見れば ちぢにものこそ かなしけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど(4-193)

月を見るといろいろなことが物悲しく思える。私だけの秋ではないけれど。


紀友則(三期 撰者)

久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ(2-84)

日の光がのどかな春の日に、なぜ桜の花は落ち着きなく散ってしまうのだろうか。

色も香も 同じ昔に さくらめど 年ふる人ぞ あらたまりける

桜は色も香りも昔と同じように咲いているようなのに、年を重ねた私は昔とは変わってしまった。



紀貫之(三期 撰者)

人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香に匂ひける

あなたの心はどうでしょうか。それはわかりませんが、この懐かしい里では梅の花が昔の香りのまま咲き匂っています。


凡河内躬恒(三期 撰者)

蝉の羽の 一重に薄き 夏衣 なればよりなむ ものにやはあらぬ

蝉の羽のように一重で薄い夏の衣も着馴れれば衣がよれるように、気持ちが薄いあなたの心も、慣れ親しめば私に寄るのではないでしょうか。

心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置き惑はせる 白菊の花(5-277)

あてずっぽうに折るなら折ろうか。初霜が降りで見わけがつかなくなっている白菊の花を。

春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる(1-41)

春の夜の闇は意味がない。梅の花は色こそ見えないが、香りまで隠れるだろうか。


壬生忠岑(三期 撰者)

ありあけの つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし

明け方の月が空に残っていたように、あなたが冷たく見えたあの別れ以来、夜明けほどつらいものはない。



▲伊勢(三期)

春霞 立つを見捨てて ゆく雁は 花なき里に 住みやならへる

春霞が立つのを見捨てて去っていく雁は、花のない里に住み慣れているの


清原深養父(三期)

花散れる 水のまにまに とめくれば 山には春も なくなりにけり(2-129)

花が散って流れる川の流れを追ってゆくと、山では春もなくなっていた



坂上是則(三期)

もみぢ葉の 流れざりせば 竜田川 水の秋をば 誰か知らまし

紅葉が流れることがなければ 「水の秋」を誰が知ることができるだろうか。

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪(1-41)

夜がほのかに明けるころ、明け方の月が光っているのかと思うほど、吉野の里に白雪が降り積もっている。


▲阿部仲麻呂

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも(9-406)

大空を振り仰いでみれば、春日の三笠山にでたあの故郷と同じ月がでている

和歌を読む1――「万葉集」

 前回文学史を復習したので(→こちら)、万葉集から読んでいきます。学校の授業というわけでもないので(というかわからないので)和歌の形式にはあまりふれず、内容について素直に感じたことをあれこれ書いてます。


■基本情報
 万葉集持統天皇のころから着手され、8世紀後半に大伴家持によってまとめられたと考えられている。収められている歌は舒明天皇即位の629年から20巻4516番が創られた759年までのものとされる。全20巻で、約4500首が収録されているが、体系だって構成・配列されているわけではない。第一部第一巻から第四巻は、柿本人麻呂以前(1.2巻)・以後(3.4巻)で時代順に配列されているが、第五巻は大友旅人・山上憶良の九州の歌で、第八巻・第十巻は雑歌・相聞を式別に分類したもの、第十四巻が東歌、第二部の第十七巻〜二十巻には大伴家持の歌が年代順に配列され、防人歌も含まれる…などバラバラである。
 万葉集の歌は内容でわければ大きく三つに分けられる(三大部立)。男女の恋愛歌を中心に、親子・兄弟姉妹・友人間の親愛・離別の情などをうたった「相聞」、人の死を悼む「挽歌」、宮廷生活の晴れの場で詠われる様々な歌「雑歌」の三つである。歌体でわければ、「短歌」(5-7-5-7-7-)、「長歌」(5-7-5-7…5-7-7)、「旋頭歌」(5-7-7-5-7-7)、「仏足石歌」(5-7-5-7-7-7)、「短連歌」(5-7-5/7-7)の五つがある。とはいえその9割が短歌で、仏足石歌、短連歌に至っては一首ずつしかないので、主に短歌で成り立っていると考えてよい。万葉集では古今和歌集以後と異なり五七調が基本となっているので、例えば短歌「5-7-5-7-7」なら「5-7-5/7-7」ではなく「5-7/5-7-7」(「5-7/5-7/7」)と分けられることが多い。
 『万葉集』に収録されている歌が詠われた期間は上述のように約130年にわたるため、一般的に四期にわけて整理されている。一期は、万葉歌が誕生した時代で、629〜672年ごろを指す。定型が確立していった時期で、この時期の歌は個人的感情を表白する創作歌が多い。自然観照の歌も詠まれるが、全体的に素朴でのびやかな歌風とされる。二期は、成熟の時代とされ673〜709年ごろにあたる。政治的には壬申の乱が平定され、律令国家が確立した安定した時代である。宮廷歌人が公的な場で詠歌するようになる時期で、長歌形式が完成し、枕詞、序詞、比喩などの技法が充実するようになる。重厚・荘重な歌風とされる。第三期は710〜733年ごろで万葉歌の完成期とされる。平城京に遷都され、大陸文化の影響が強まった時期で、叙景歌や伝説歌、人生を見つめる歌など様々な歌が詠まれるようになり、個性的な歌が多い。優美で洗練された歌風とされる。第四期は734〜759年で、貴族観の対立抗争が激化した時代である。この頃の歌は社交の道具として類型的な歌が多くよまれ、また女性たちの恋歌が多いのも特徴である。長歌は衰え、繊細で感傷的な歌風とされている。
 万葉集は、基本的に万葉仮名で書かれているため、すべて漢字で表記されている。 
 

■有名な歌人とその歌
 口語訳は注記がない限り「NHK日めくり万葉集」より引用(http://www.nhk.or.jp/manyoushuu/kako/index.html)。


額田王(第一期)
 大海人皇子天武天皇)に愛された飛鳥時代の皇室歌人。後に天智天皇に仕える。

茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流(あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る:1-20)

 紫草の生える御料地の野をいらっしゃるあなた、野の番人に見られてしまいますよ、そんなに袖を振って私をお誘いになっては。

熱田津爾 船乘世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜
(熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな:1-8)

 熟田津で船出しようとして月の出を待っていると、月も出、潮も幸い満ちて来た。さあ、今こそ漕ぎ出そう。
 *熟田津(にきたつ):今の愛媛県松山市

君待登 吾戀居者 我屋戸之 簾動之 秋風吹
(君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く:4-488)

 大君のお出ましを心待ちにして、わたしが恋の思いに胸をときめかせていますと、わが家の戸口の簾を動かして、秋の風が吹いてくる。



 この三首の中では最後の「君待つと〜」が私は一番好き。「あかねさす〜」は、本当に「やめてよっ!」というよりは、「ちょっと、やだ!」っていう照れくささが混じってるんでしょうか。そんな感じがしますね。うん。かわいい。だた「行き」の意味がいまいちよくわからんです。
 「熟田津に〜」は正直よくわからない。やる気に充ち溢れてる感じがして、元気はでますが、状況描写はなんだか客観的でラッキーという程度のことしか感じられないです笑
 最後の「君待つと〜」は、現代風に言えば、好きな人からのメールを待っている時に、携帯が光に反射したのが鳴っていると勘違いしてしまう、というようなことでしょうか。あるあるーってよくわかります。しかも、これが「秋の風」のせいで、なんだか切なげです。「来ないとわかってるけど…」的な雰囲気が醸し出されていて、恋心の甘さと切なさがよくでてると思うんです。



柿本人麻呂(第二期)
 天武天皇に出仕し、持統天皇文武天皇時代に宮廷歌人として活躍。長歌形式を完成させたとされ、また枕詞、助詞、対句、比喩などの修辞法を豊かに用いたことでも知られる。

淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念
(近江の海、夕波千鳥、汝が鳴けば、心もしのに、いにしへ思ほゆ:3-266)

 近江の海の夕波千鳥よ おまえが鳴くと心もしみじみと昔のことが思われる
 *近江の海:琵琶湖

秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎将求 山道不知母
(秋山の、黄葉を茂み、惑ひぬる、妹を求めむ、山道知らずも:2-208)

石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香
(石見のや、高角山の、木の間より、我が振る袖を、妹見つらむか:2-132)

東野 炎立所見而反見爲者月西渡
(東の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月かたぶきぬ:1-48)

 東の野に陽炎の立つのが見えて 振り返って見ると月は西に傾いている


 妻に関する歌が多いのと、自然の情景を感情に重ねることの多い印象。「近江の海〜」はわりとわかりやすい。音で昔のことが思い出されることはよくあります。ただ千鳥の鳴き声あんまり風流じゃないので、私の中で勝手にカモメに置き換えています笑 
 「秋山の〜」はちょっと凝っていて、死んだ奥さんを求める気持ちと、山道に迷ったことを重ねているのでしょう。(今となれば)ありきたりっちゃありきたりだけど、「心にぽっかりと穴が開いた」という表現よりは新鮮で、しかもなんだか途方にくれてる感じが伝わります。
 「石見のや〜」の背景はしりませんが、そのまま読めば、かわいらしい歌です。電車が遠くへ行ってもずっと手を振り続けてるような感覚でしょうか。なにか心の中で叫んでいたんではないでしょうかね。
 「東の〜」は輪廻を読んだとか、政治情勢を読んだとかいわれますが、詳しいことは知りません。ただ、単純にこの情景はぱっと思い浮かぶし、この情景にいろいろな想いを込めることもできると思います。後半に「かたぶきぬ」を置いているので少し寂しげな感じがつよいですかね。「かへりみすれば」はなんとなく、「はっとして」という印象が私にはあります。日が昇るのを見て「今日がはじまるなー」みたいな気分をぼんやりと考えつつ、「はっ!そういえば昨日はどうなった!?」って振り返るともう終わりかけてる、みたいな。比喩的ですが笑


志貴皇子(しきのみこ) (第二期)
 天智天皇の皇子で、光仁天皇の父(従って田原天皇とおくりなされた)。政治の中核にかかわることはなかった皇室歌人

石激 垂見之上乃 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
(石ばしる、垂水の上の、さわらびの、萌え出づる春になりにけるかも:8-1418)

岩を叩き水しぶき散る清い瀧のほとりのわらびが (新)芽を出し始める春になったんだ。

(釆)女乃 袖吹反 明日香風 京都乎遠見 無用尓布久
(釆女の、袖吹きかへす、明日香風、みやこを遠み、いたづらに吹く:1-51)

采女(うねめ)の袖を吹きかえしていた明日香の風も、都が遠くへいってしまったので、空しく吹いている(ブログ主訳)



 派手で大きなことは歌わない人。静かな、小さなことに焦点を当ててそっと歌う感じが素敵です。春の訪れを歌った歌はたくさんありますが、「石ばしる〜」もその一つ。川や水の様子で春を現してもいいものを、その横のわらびって!「石ばしる」の激しさに対してそっとした感じがいいです。
 「うねめの〜」は、そこに吹く風に焦点があてられているようにみえますが、同じ風は無いし、一点を定めないと風の変化(袖を吹いてた風とむなしく吹く風)を認められないはずなので、風と言うよりその土地に注目してるのではないでしょうか。そして、「都が遠のく」っていいですね。遷都された後の土地の感じがさみしいです。



山部赤人(第三期)
 下級官吏として調停に仕え、天皇行幸の供として旅にでることが多く、旅の歌人としての高市黒人の伝統を継いで旅の作品が多い。

天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将徃 不盡能高嶺者

(天地の別れし時ゆ、神さびて、高く貴き駿河なる富士の高嶺を、天の原振り放け見れば、渡る日の影も隠らひ、照る月の光も見えず、白雲もい行きはばかり、時じくぞ雪は降りける、語り継ぎ言ひ継ぎ行かむ、富士の高嶺は:3-317)

天と地が分かれた時から 神々しくて高く貴い 駿河の国にある富士の高嶺を 天空に振り仰いでみると 空を渡る太陽の姿も隠れ 照る月の光も見えない 白雲も進みかね 時を定めずいつも雪は降り積もっている 語り伝え言い継いでいこう この富士の高嶺は

田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
(田児の浦ゆ、うち出でて見れば、真白にそ、富士の高嶺(たかね)に、雪(ゆき)は降りける:3-318)

田子の浦を通り 眺めのよいところに出て望み見ると、真っ白に 富士の高嶺に 雪が降り積もっている

春野尓 須美礼採尓等 来師吾曽 野乎奈都可之美 一夜宿二来
(春の野に すみれ摘みにと 来しわれそ 野を懐かしみ一夜 寝にける:8-1424)

春の野に すみれを摘みに 来たわたしは 野に魅せられて思わず一夜を明かしてしまった

足比奇乃 山櫻花 日並而 如是開有者 甚戀目夜裳
(あしひきの 山桜花 日並べて かく咲きたらば、いと恋ひめやも)

もしも山の桜が何日も咲いていたら、こんなに恋しいとは思わないだろう(ブログ主訳)

若浦爾 鹽滿來者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
(若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る:6-919)

若の浦に潮がさしてくると だんだん干潟がなくなるので、葦の茂る岸辺を目指して 鶴の群れがしきりに鳴きわたってゆく



 最初の長歌は富士山をうたったものですが、感心してしまいます。太陽と月の光もさえぎるということで視覚的にその圧倒的な大きさ、スケール感が伝わってきます。それだけでなく雲さえ進めないということでその偉大さ、雄大さまで伝わってきます。さらに、時間軸が加わり時がとまったようにずっと雪が積もっていることを述べた後で「語りつごう」という、つまりこの無限性に人も参加しよう、というような意味でしょうか。長歌ってあまりなじみなかったんですけど、すごいですなー。
 「田児の浦ゆ」はこの歌の反歌です。ただ富士山そのままの描写ではなく、上の句で富士山をみるまでの道のりというか経緯が想像されるので、富士山が視界に現れてきた時の感動が伝わってきます。旅好きの私としては、森を抜けてあらわれるアンコールワットをみたあの感動を思い浮かべます(富士山はあまりにいつも見えるので笑)。
 「春の野に〜」は上の壮大な歌に比べてかわいらしい歌と思われるかもしれませんが、志貴皇子の小さな感動を思い出せばやはりだいぶ派手です。ほんまかいな、と思ってしまうような行為に合わせて情景を想像すると、それはそれは美しい野原だったんだなぁといろいろ妄想が膨らみます。きっとそういう効果を狙っているのでしょう。春の野についての描写はありませんから。
 「あしひきの〜」も同様に桜を直接は描写していませんが、その想いから情景が浮かびます。ただしこちらの場合は具体的な情景といよりは心象といった感じがしますが。後に在原業平が「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」という有名な歌をうたいますが、業平の歌が「桜が<なかったら>心おだやかなのに」と歌っているのに対し、赤人の歌は「桜が<ありつづけたら>心おだやかなのに」と歌っていて、視点が違うのが面白いです。
 最後の「若の浦〜」の歌。これこそ山部赤人っぽい歌と言えるのかもしれませんが、うーむ、よくわかりません笑 風景ははっきりと浮かびます。叙景歌の典型を確立したといわれる赤人の腕なのでしょう。それはすごいなぁと思います。が、本当に風景だなーという感じ。これにどう感情移入させようか、と悩んでしまうほど、ただの風景。おもしろくて好きですがね。感情なんてすっとばしてもいいのかもしれません。



山上憶良(第三期)
 42歳の時遣唐少録として唐に渡たり、帰国後伯耆守、東宮の侍講、筑前守を歴任した官人、歌人筑前では当時の大宰帥大伴旅人と交流があった。儒教仏教の教養が深く、漢詩の素養もあった。

宇利波米婆 胡藤母意母保由 久利波米婆 麻斯提斯農波由 伊豆久欲利 枳多利斯物能曽 麻奈迦比尓 母等奈可可利提 夜周伊斯奈佐農
(瓜食めば子ども思ほゆ、栗食めばまして偲はゆ、いづくより来りしものぞ、眼交にもとなかかりて、安寐(やすい)し寝(な)さぬ:5-802)

瓜を食べると あどけない子どもたちの顔が思い出される。栗を食べるとなおさら思われる。どういう縁でどこから私のもとに生まれてきたのか。目の前にやたらにちらついて安眠させてくれない。

銀母 金母玉母 奈爾世武爾 麻佐禮留多可良 古爾斯迦米夜母
(銀も金も玉も何ぜむに 勝れる宝子に及かめやも:5-803)

銀も金も玉も どうして優れた宝は 子どもに及ぼうか。我が子以上の宝はないのだ

憶良等者 今者將罷 子將哭 其彼母毛 吾乎將待曽
(憶良らは 今は罷らむ 子泣くらむ そを負ふ母も 吾を待つらむそ:3-337)

憶良めはもうおいとまいたしましょう。家では子どもが泣いているでしょう、それその子の母も私を待っていることでしょうから。


(前略)
天地者 比呂之等伊倍杼 安我多米波 狭也奈里奴流 日月波 安可之等伊倍騰 安我多米波 照哉多麻波奴 人皆可 吾耳也之可流 和久良婆尓 比等々波安流乎 比等奈美尓 安礼母作乎 綿毛奈伎 布可多衣乃 美留乃其等 和々氣佐我礼流 可々布能尾 肩尓打懸 布勢伊保能 麻宜伊保乃内尓 直土尓 藁解敷而 父母波 枕乃可多尓 妻子等母波 足乃方尓 圍居而 憂吟 可麻度柔播 火氣布伎多弖受 許之伎尓波 久毛能須可伎弖 飯炊 事毛和須礼提 奴延鳥乃 能杼与比居尓 伊等乃伎提 短物乎 端伎流等 云之如 楚取 五十戸良我許恵波 寝屋度麻【手偏に〒】 来立呼比奴 可久婆可里 須部奈伎物能可 世間乃道

(天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 我れも作るを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけさがれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へさまよひ かまどには 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く ことも忘れて 鵺鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると いへるがごとく しもと取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道:5-892)

 天地は広いというが、わたしに対しては狭くなったのか。日月は明るいというが、わたしのためには照ってくださらないのか。他の人もみんなこうなのか、わたしだけこうなのか。人として生まれ、人並みに働いているのに、綿も入っていない海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけて、崩れかけて曲がった家の中には、地べたにわらを敷いて、父と母は枕の方に,妻と子どもは足の方に私を囲むようにして嘆き悲しんでいる。かまどには火が入ることはなく、米のための容器にはクモの巣がはり、飯を炊くことも忘れてしまった。ぬえ鳥のように悲しく声をあげると、すでに短いものの端をさらに切るように、鞭を持った里長の声が寝床にまで聞こえてくる。こんなにもどうしようもないものなのか、世の中というものは。(ブログ主訳)

世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼母 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
(世間を、憂しとやさしと、思へども、飛び立ちかねつ、鳥にしあらねば:5-893)

この世の中をいとわしいところ、恥ずかしいところと思うけれど、飛び立ち去ることもできない。鳥ではないので


 
 山上憶良の作品には修辞技巧が少なく、また長歌が多い。内容的には恋の歌は全くなく、自然を詠んだ歌も少ない。思想性、社会性を持つ歌が主流です。内容を考えれば形式は必然的に技巧が少なく、長歌が多くなったのであろうと思います。「瓜食めば〜」は先入観なしに読めば親バカの歌で、なにしても子どもが頭に浮かんで寝ることすらできないという歌です。「銀も金も〜」はこれに対する返歌ですが、やはり子どもが好き!!って歌に読めます。
 しかし「憶良らは〜」はあたりから、少し雲雪があやしくなってきます。素直に子どもを思う親の気持ちを書いたものにしては、子どもが泣いていたり、母まで待っている事実は穏やかではありません。そして貧窮問答歌を読むと、なんとも悲惨な生活が明らかになります。この生活を踏まえたうえでもう一度「瓜食めば〜」や「銀も金も〜」を読むと、子どもの顔が浮かぶのは心配やせめてもの希望の現れのような気がしてきます。そして父母、妻子どもが自分を囲んで嘆き悲しんでいる。そのような状態にある人が「世間を〜」の歌を歌っていると思うと「飛び立ちかねつ、鳥にしあらねば」がなんとも切実な、まさに「どうしようもない」状態をよく表していることがわかります。
 ちなみにもっと直接「すべもなく 苦しくあれば 出で走り 去ななと思へど 此らに障りぬ」(5−899)と詠っている歌もあります。


大伴旅人(第三期)
 名門貴族の大伴家であるが、新興の藤原氏に圧倒されていった時代を生きた。太宰帥として筑紫に赴任するが、そこで妻を亡くす。中国の老荘思想の影響をうけたとされる。

萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為
(忘れ草、我が紐付く、香具山の、古りにし里を、忘れむがため:3-334)

忘れ草を紐に付けました。香具山の懐かしい古里を忘れられるように。(ブログ主訳)

沫雪 保杼呂保杼呂尓 零敷者 平城京師 所念可聞
(淡雪の、ほどろほどろに、降りしけば、奈良の都し、思ほゆるかも:8-1639)

淡雪がはらはらと降り積もったので、奈良の都のことを思い出してしまう。

吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉
(我妹子が、見し鞆(とも)の浦の、むろの木は、常世にあれど、見し人ぞなき:3-446)

私の妻も見た鞆の浦のむろの木は、ここにずっと変わらずにあるけれど、そのむろの木を眺めていた妻はもういない(ブログ主訳)

験無 物乎不念者 一坏乃 濁酒乎 可飲有良師
(験なき、ものを思はずは、一杯の濁れる酒を、飲むべくあるらし:3-338)

甲斐のない物思いをするよりは いっそ一杯の濁り酒を飲んだ方がいいようだ

今代尓之 樂有者 来生者 蟲尓鳥尓毛 吾羽成奈武
(この世にし、楽しくあらば、来む世には、虫に鳥にも、我れはなりなむ:3-348)

この世でさえ楽しかったら 来世では虫にでも鳥にでもわたしはなってしまおう

由吉能伊呂遠 有婆比弖佐家流 有米能波奈 伊麻左加利奈利 弥牟必登母我聞
(雪の色を、奪ひて咲ける、梅の花、今盛りなり、見む人もがも:5-850)

雪の白さを奪うように咲いている梅の花は今真っ盛りである。一緒に見る人がいればなぁ。



 印象としてはそれほどこっていない素朴な歌が多いような気がします。「忘れ草〜」は、九州に赴任した旅人が奈良を懐かしんでいる歌だろうと思いますが、未練タラタラの想いが「忘れ草をつける」という可愛い行為のおかげでそれほどいやらしくなくなっているように思います。「淡雪が〜」の方はもっと未練が前面に出ていますが、「忘れ草」ほど単純ではありません。なんで淡雪が降るのを見ると、奈良を思い出すのでしょうか。よくわかりません。九州では雪が降らないから?それとも雪がはらはら降るのが桜に見えたから?いずれにしてもちょっと(技巧的という意味で)飛躍があります。まぁそれほどすごい!というものではないですが。
 九州で妻を亡くした旅人には亡妻追慕の歌が多いです。「我妹子が〜」はその代表作だと思いますが、木の変わらなさと、人の死のはかなさの対比させてるのだと思います。ちなみに鞆の浦は広島にあり、九州から大阪への旅の途中で鞆の浦のむろの木を見つけて、ふと妻のことを思い出したのでしょう。場所の記憶ってありますよね。
 「験なき〜」と「この世にし〜」は酒を讃むる歌で、旅人が得意としたものですが、妻の死を知ると、一気に雰囲気が変わります。むしろ酒の力を借りてもどうしようもできない悲しさ、むなしさみたいなものが込められているように思います。来世で虫や鳥、とあるのは、仏教で酒に乱れると来世人以外の生き物に輪廻すると考えられていたことをふまえると理解できます。「この世にし〜」を妻の死と関連づけて解釈するのはあまり正しくないのかもしれませんが、同じ歌が背景を入れ替えることで全く見え方が違うことはおもしろいですね。「雪の色を〜」も単純に読めば、梅のきれいさをたたえて、恋人ほしいな〜っていうのんきな歌ですが、妻がいなくなったことと合わせるとずいぶん印象がかわります。この歌の「雪の色を奪って咲く梅」って良いですね。ちょっとどきっとするけど、おもしろい表現だなーって思います。


大伴家持(第四期)
 大伴旅人の子、諸国の国守を歴任後、東宮大夫中納言持節大将軍にすすむが、無実の罪に陥れられるなど困難も多かった。入選歌集が最多の歌人である。

春苑 紅爾保布 桃花 下照道爾 出立嬬
(春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ:19-4139)

春の園の、紅色に美しく咲いている桃の花の樹の下まで照り輝く道に出てたたずむ乙女よ

春野尓 霞多奈伎 宇良悲 許能暮影尓 鴬奈久母
(春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に 鴬鳴くも:19-4290)

春の野に霞がたなびいて 何となく心悲しいこの夕暮れの光の中で うぐいすが鳴いているよ

和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敝可母
(わが屋戸の いささ群竹 吹く風の 音のかそけき この夕かも:19-4291)

我が家の庭の ほんの少しの群竹に吹く風の 音のかすかに聞こえるこの夕べよ

宇良々々尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比<登>里志於母倍婆
(うらうらに 照れる春日に 雲雀あがり 心悲しも ひとりし思へば:19-4292)

うららかに照っている春の日に ひばりが青空に舞い上がり 心は悲しいことだ ひとり物思いをしていると



 いずれも30代、越中守在任期の歌です。この時期に詠まれた歌が家持の歌の中の大半を占めるそうです。大宰府や都の風景とは違ったからなのでしょうか。風景を詠んだ歌が多いように思います。「春の園〜」は桃の花と少女のきれいさを瞬間的にとらえたような歌ですが、私は想像力が乏しく、桃の花をイメージしても桜になってしまいます笑 家持のオリジナルではないですが、色が「にほふ」って表現されるのはおもしろいですよね。定家が匂いで景色が霞む、というような歌を書いていてこれもすごいと思いましたが、匂いと色とが溶け合う不思議な感覚なんでしょうね。桃の花がの色が道にまでうつるなんて強烈な表現ですが、やっぱり桜をイメージしてしまいます。。。今度桃を見に行かなければ…。
 後の3首は「春愁三首」と呼ばれているものです。どれも春を歌っていながら、「春の園〜」と違ってなんとなく物悲しいです。「春の野に〜」と「うらうらに〜」は「うら悲し」とか「心悲し」って直接表現しているのに対して、「わが屋戸の〜」はそういう表現をしていないところが私は好きです。「風」と「かそけし(かすか)」と「夕」だけで寂しい感じがでるんですね。しかも、音だけ聞こえるってことは外を見てさえいないので、家の中にいるってものすごい寂しい感じがします。
 もう一つ、家持が少年期に詠んだ歌ですが、いろいろ深読みできて好きな歌があります。

春野尓 安佐留雉乃 妻戀尓 己我當乎 人尓令知管
春の野に あさる雉の 妻恋ひに おのがあたりを 人に知れつつ

春の野に餌をあさっているきぎしが妻を慕って鳴き、自分の居場所を人に知らせてしまっている。



▲防人歌
 万葉集天皇の詠む歌があれば、庶民が詠む歌まであることで有名です。防人とは、主に東国の若者徴集されてなる九州北部の警備を行う兵士のことで、その防人が詠む防人歌は離別の際の悲しさや、故郷を思う気持ちを詠む歌が特徴です。任期は三年ですが、東国から北九州まで行くことはそう簡単ではないですし、任期が終わっても帰れるかどうかは微妙です。そういう気持ちが詠われているのでしょう。また方言が用いられていることも良い効果を出していると言われます。

・他田舎人大嶋(おさたのとねりおおしま)

可良己呂武 須宗尓等里都伎 奈苦古良乎 意伎弖曽伎怒也 意母奈之尓志弖
(唐衣、裾に取り付き、泣く子らを、置きてぞ来のや、母なしにして:20-4401)

着物の裾に取りすがって泣く子どもたちを置いてきてしまった。母親もいないのに。(ブログ主訳)

・丈部稲麻呂

知々波々我 可之良加伎奈弖 佐久安<例弖> 伊比之氣等<婆>是 和須礼加祢<豆>流
(父母が 頭掻き撫で 幸くあれて 言ひし言葉ぜ 忘れかねつる:20-4346)

別れの時に 父と母とが わたしの頭を両手で撫でまわしながら「幸くあれ」−くれぐれも無事で過ごせ−と言ったことばが 脳裏から離れない


・服部於由

和我由伎乃 伊伎都久之可婆 安之我良乃 美祢波保久毛乎 美等登志努波祢
(我が行きの、息づくしかば、足柄の、峰延ほ雲を、見とと偲はね:20-4421)

私がいないのが苦しくなったら、足柄の峰に這う雲を見て、思い出してほしい。(ブログ主訳)


・作者不明

佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受
(防人に、行くは誰が背と、問ふ人を、見るが羨しさ、物思ひもせず:20-4425)

防人に行くのはだれの夫かと聞いている人をみると、うらやましい。悩まずにすんで。(ブログ主訳)



 同じ防人、同じ別れ、同じ悲しい、でも思ってることはかなり違いますね。「唐衣〜」はなにより子どもを心配している。母親と父親がいないんですからそりゃそうでしょう。これはつらいですね。全体として防人歌は技巧は少ないです。そりゃそうですよね。山上憶良と同じように、こういう切実な思いに「あしひきの〜」なんて言ってる暇はないです。でも、やはり歌ですから、ただ言葉にしただけでは意味がない。「唐衣〜」も「母なしにして」が最後にくることで、心配な気持ちが一気に盛り上がります。「父母が〜」は両親です。こちらは心配というよりは、純粋に別れを悲しんでいる様子です。「頭書き撫で」の状況が浮かんで泣けてきます。「我が行きの〜」は、訳が正しいかかなり自信がないのですが、とりあえず妻を想ってる歌ですよね。自分の心というよりは、妻がか細い気持ちになることを案じている優しい歌に聞こえます。これとセットになる妻は自分が苦しいことを詠っているのですが笑 「防人に〜」もまたリアルな歌です。妻たちの日常生活がかいま見えます。「恨めしい」ではなく「羨ましい」としているところからも、普段は自分もそういう言い方をしている、というような感じが読みとれます。



▲東歌
 東歌は、東国地方の人の歌で、生活に密着した庶民の心情が表現されているといわれます。

筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思母
(筑波嶺の、新桑繭の、衣はあれど、君が御衣し、あやに着欲しも:14-3350)

筑波山の桑の新芽で育てた蚕のまゆで作った絹の衣もいいけど、あなたの衣を着てみたい。

信濃道者 伊麻能波里美知 可里婆祢尓 安思布麻之奈牟 久都波気和我世
信濃道は 今の墾り道 刈りばねに 足踏ましむな 沓はけ我が背:14-3399)

信濃道は切り開いたばかりの新しい道です。切り株に足を踏みつけなされるな。くつを履いていらっしゃい、あなた。


 「庶民らしい」ということがすぐわかる歌ばかりです。宮中の人は絶対詠まない身近な感じが好きです。「筑波嶺の〜」は、良い服着たいって思ってることが親近感わきます。歌自体は好きな人の想う気持ちを詠っているのですがね。でも、いくら好きな人でもその人の服を着てみたい、ってどういうことなんだろう、、とちょっと思ってしまいます笑 「信濃道は〜」はまさに日常風景という感じ。でも、逆になんでこんな歌詠ったんだろうかと疑問に思ってしまいもする。相当雅な夫婦で普段から歌で日常会話しているのでしょうか。歌の風景描写はすごいと思うし、情景もうかぶので後代の私たちにとっては貴重な歌ですが、当時作った人の意図が全くわからない不思議な歌だなぁと思います。

和歌を読む0――文学史復習

 「和歌」は私にとって遠い存在です。学校で学んだものの、そのほとんどは忘れ、たまにふとウェブで検索して良さそうなものを探す程度のものでした。少し時間ができたので、いつか「和歌を楽しむ」ことができるようになるために基礎知識をおさらいしようかなと思い立ちました。「楽しむ」前にとりあえず読んでみよう、というものです。「実況動画」のように、私が触れたものをそのまま感想を述べながら紹介するので、勉強にはご利用なさらないでください。念のため。
 なるべく深入りせず、しかし自分の眼で確認しつつ、万葉集古今和歌集新古今和歌集など有名な歌集をよんで行きたいと思います。とりあえず、和歌に限らず文学史を簡単に(?)復習したあと、「歌とは何か」について本居宣長と香川景樹と紀貫之の言葉を読んでイメージをつかみたいと思います。



文学史復習
 *作品の成立年は正確なものではなく、その頃という程度のいみです。


上代(太古〜平安京遷都)
 4,5世紀に漢字が流入し、日本人は文字社会へと移行した。個の中で、祭式の場でうたわれた「うた」が変化した古代歌謡、それがさらに個人的なものに姿を変えたことでうまれたとされる歌謡を記録しようという機運がうまれてきた。現存する最古の歌集は8世紀後半『万葉集』であるが、ここには4世紀のものとされる歌も収められている。同時期にまとめられた『古事記』(「『古事記』を読む」)『日本書紀』『風土記』が(純粋・変体)漢文体で書かれているのに対し、『万葉集』(「和歌を読む1」)は漢字でかかれているものの、日本独自の言語を表記するために「万葉仮名」が使われている。


 漢字の流入ともに、大陸の思想、文化も流入し、7世紀には日本人による漢詩文の創作が行われ、後に漢詩集『懐風藻』として残されている(751年)。同時期に日本初の本格的唐風都城である藤原京も建てられている(698年)。


▲中古(平安京鎌倉幕府成立)
 貴族が政治・文化を担った中古は、主に唐風文化の時代と、国風文化の時代にわけることができる。桓武天皇平安京建設から国造りまで中国大陸から多くのことを学び、採り入れた。こうした中で漢詩文は公的文学の位置を与えられ、『凌雲集』(814年)をはじめ、『文華秀麗集』(818年)、『経国集』(827年)など多くの勅撰漢詩集が次々と成立した。菅原道真もこの時期の人で、左遷される前に『菅家文草』(900年)、左遷後に『菅家後集』(903年)を残した。漢詩文集はその後も『和漢朗詠集』(1013年)や『本朝文粋』(1028年)など漢詩文集が編まれた。
 しかし、徐々に日本独自の文化が盛んになり、894年遣唐使の廃止後国風文化の勢いは加速した。万葉仮名が略されることでうまれた「ひらがな」や、カタカナを用いた漢文の書き下し文が生まれることも独自の感情を表現することに資したであろう。こうした中で和歌が見直され、歌合、屏風歌なども盛んになった。その集大成として『古今和歌集』(→「和歌を読む2」)が勅撰和歌集として編まれることになった(905年)。公式文書に漢文しか使われない時代において、女性のための文字であるひらがなの序文を持ち、ひらがなで書かれた和歌集が勅撰で編まれることは画期的であった(漢文の序文もあるが)。その後も『後撰和歌集』(951年)『拾遺和歌集』(1005年)『後拾遺和歌集』(1086年)…『千載和歌集』(1188年)まで多くの勅撰和歌集が編まれた。鎌倉時代の『新古今和歌集』(1205年)もこの流れの中に位置づけられる。勅撰和歌集以外にも、私家集、歌論なども書かれていった。


 この時期はまた、伝承されてきた伝承、神話、説話などと中国文学の影響が結び付き、「物語」という新しい文学形式が生まれた時期でもあった。『竹取物語』には竹取翁説話、羽衣伝説、求婚難題説話などが用いられている。このような作り物語には他に、『うつほ物語』(974年)、『落窪物語』(985年)がある。こうした作り物語とは異なり、『伊勢物語』(905年)のような和歌を主題においた歌物語も生まれ、これには『大和物語』(951年)、『平中物語』(960年)などがある。
 藤原氏摂関政治を確立し、その全盛期を迎える頃、後宮に住む女官たちによる作品がうまれた。紫式部の『源氏物語』(1010年)はその後多くの作品に影響を与え、例えば『夜の寝覚』(1055年)、『狭衣物語』(1070年)、『浜松中納言物語』(11世紀後半)などが作られた。
 もともと公的記録として漢文で書かれていた日記は、かな文字の表現力と結び付いて思ったことや体験を素直に表現するものとなった(仮名日記)。和歌の名人であった紀貫之は『土佐日記』(935年)で、漢文では表すことのできない口語的で素直な文章をひらがなを使うことで表現した。これが女性に仮託性書かれたこともあって女性の日記文学を促し、『蜻蛉日記』(974)、『和泉式部日記』(1008年)、『紫式部日記』(1010年)、『更級日記』(1060年)、あるいは『枕草子』(1001年)や、『成尋阿闍梨母集』(1073年)、『讃岐典侍日記』(1109年)などが生まれた。
 平安時代末期になると、物語文学が衰退し、歴史を回顧する歴史物語が台頭した。これらは私的な物語風の歴史書で、『栄華物語』(1028年)、『大鏡』(1114年)、『今鏡』(1170年)などが書かれた。


 このほか仏教が浸透していくにつれ『日本霊異記』(823年)、や『三宝絵』(984年)などの仏教説話が生まれた。平安後期になると世俗説話も登場し、それらをまとめたものとして『今昔物語』(1129年)がある。また、民謡歌謡が神楽歌、東遊歌、催馬楽、風俗歌などに整備された。平安末期にはこれらに対し「今様」と呼ばれる新様式の歌謡が生まれ、『梁塵秘抄』(1169年)にまとめられた。


▲中世(鎌倉幕府江戸幕府成立)
 中世は武士が政権を担った時代だが、京都には天皇も貴族もおり中古の伝統が途絶えたわけではなかった。この時代も主に中古の伝統を受け継ぐ前期と、南北朝以後の武家・庶民階級の文化の台頭した後期にわけることができる。
 中世の前期は、王朝時代への懐古的姿勢が強く、中古の文学作品の模倣や擬古的創作が物語、和歌、日記など多くの分野で行われた。物語においては、擬古物語と呼ばれ、『とりかへばや物語』(1192年)、『海人の刈藻』(1192年)、『松浦宮物語』(1193年)、『住吉物語』(1221年)、『石清水物語』(1265年)などがある。中古に漢文体で書かれた軍記物語は中世になると和漢混淆文でかかれ、説話文学の影響をうけていきいきと描かれるようになった。『保元物語』(1223年)、『平治物語』(1246年)、無常観に寄りながら平家一門の盛衰を描いた『平家物語』(1240年)などがある。歴史物語は『今鏡』を継いで『水鏡』(1195年)や『増鏡』(1376年)が書かれた。また『無明草子』(1201年)は、日本初の物語評論として知られる。
 和歌の世界においては、平安期の美意識を「幽玄」として新たに捉えなおし、抒情性豊かな王朝的世界を歌にした。藤原俊成、定家の父子は新古今調の歌風を確立し、平安末期の歌風を総合した。『新古今和歌集』(1205年)はこうした和歌を集めた八番目の勅撰和歌集で、この後も勅撰和歌集が多く撰進されるが、21番目の『新続古今和歌集』(1439年)で勅撰和歌集は途絶えてしまう。またこの時代は大規模な歌合が行われたり、連歌が発達、整備され『菟玖波集』(1356年)にまとめられたりした。連歌は有心連歌と無心連歌に別れ、和歌的な前者が優勢となり『竹林抄』(1476年)にまとめられる。
 日記は女流日記文学の流れを引き継ぎ、かな書きの日記が多く書かれた。『弁内侍日記』(1246年-)、『中務内侍日記』(1280年-)、『とはずがたり』(1271年-)などの他、男性の日記として『源家長日記』、『宗長日記』などがある。また、京都と鎌倉の往来が盛んになったことで『十六夜日記』(1283年-)などの旅日記が生まれた。この時代には鴨長明『方上記』(1212年-)、兼好法師徒然草』(1330年-)など随筆に優れたものも多い。


 下層階級の台頭とともに、文学に新しい考え方が流入する。バサラとよばれる、既成の価値観にとらわれない無法者やその生き方が、『義経記』、『太平記』(1370年)などに取り入れられている。庶民の信仰や生活感情も、御伽草子などの物語や、小歌に繁栄されている。連歌もこのような下層階級の風俗と、王朝文化の伝統とが融合した中であらわれてきたものである。このほか、新仏教のおこりをうけ、民衆教化のための法語と言うジャンルがうまれた。道元の『正法眼蔵』(1231年-)や、親鸞の『歎異抄』(1300年)などがある。また説話集は隆盛を極め、『発心集』(1216年)、『閑居友』(1222年)などの仏教説話だけでなく、『宇治拾遺物語』(1213年)や『古今著聞集』(1254年)など様々な説話が生まれた。幕府は禅宗を保護したため、臨済宗の五山を中心に、京都・鎌倉の禅寺で漢詩・漢文が発達した。室町時代は、文学と芸能が融合した結果、滑稽な舞踊であった猿楽や農耕神事芸であった田楽は、それぞれ猿楽能、田楽能へと変化し、さらにそれが狂言と能にわかれた。そして、観阿弥世阿弥によって能は洗練された芸術になるに至った。


■歌とは何か

 水垣久氏の「やまとうた」というサイトの「和歌入門のための引用集・資料集」というページで「歌とは何か」として、本居宣長の『石上私淑語』と香川景樹『歌学提要』が引かれおり、興味深いので孫引きさせていただきます。(現代語訳はリンクを参照ください。)

 ただの詞はその意をつぶつぶといひ続けて、理りはこまかに聞ゆれども、なほいふにいはれぬ情のあはれは、歌ならではのべがたし。そのいふにいはれぬあはれの深きところの、歌にのべあらはさるるは何ゆゑぞといふに、詞に文をなすゆゑなり。その文によりて、限りなきあはれもあらはるるなり。さてその歌といふ物は、ただの詞のやうに事の意をくはしくつまびらかにいひのぶる物にはあらず、またその詞に深き義理のこもりたる物にもあらず。ただ心にあはれと思ふことをふといひ出でて、うち聞えたるまでのことなれども、その中に底ひもなく限りもなきあはれの含むことは、詞に文あるゆゑなり。(本居宣長の『石上私淑語』強調引用者)

凡人のこころ、物に感ずれば、かならず声あり。感じて動くときは、その声永し。その永きを歌とし、永くするを歌ふといふ。(香川景樹『歌学提要』)

歌に関しては、古今和歌集の序文で紀貫之も興味深いことを述べています。

やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。

 要するに、心が動かされた時、それをうまく表現する手段として和歌があった(ある)のだと思います。「うまく」表現するためには、ただの文章とは異なる言葉の使い方があるはずで、そのことを少し考えながら、しかし根本は“きれい”とか“悲しい”とか“愛おしい”とかの「感動」にあるはずなので、あまり修辞・技巧にこだわらずにその「心の動き」が感じられれば良いのかな、なんて思っています。

忘備録(新聞記事)

気になった新聞記事の忘備録


▲米新聞業界(A2011/10/29-15)
 不景気による広告収入減で、休刊(2007-2011で212紙)、記者の賃金、人数減。ローカル紙休刊で、小さな街の役所や議会、学校や地裁に取材に行く記者がいなくなった結果、市議会の監視の不在、政治関心の低下(投票率低下)で市の政治腐敗が起きている。裁判所、医療分野でも問題が出始めている。
 記者は民主社会に不可欠な公共財だということを住民や大学、財団、企業に理解してもらい、寄付を募ってNPOとしての報道専門組織を各地で立ち上げていくことが求められる。

*米連邦通信委員会(FCC)から委託されて全米のニュース需給事情を調べた元米誌記者スティーブン・ワルドマン氏へのインタビューより(A2011/10/29-15)

 
 …権力監視が不可欠であることは、3月の事故でも身にしみて感じられた。不景気による記者の数の減少があってもなくても、各地方自治体など小さい単位での監視や、細かい分野・内容についての監視が必要なのではないか。インターネットをうまく利用すれば監視を新聞より安く行えると思う。監視さえできれば紙である必要はないし、重大な事実が発覚した時にはインターネットの拡散力を頼れば良い。また、人員も中心メンバー以外は、ゆるやかな集合を使えば良い。以前、監視カメラの映像をネットに流して、万引きを見つけたらポイントを与えると言う試みがあったが、同じような形で、気軽に監視に参加できる仕組みが創れたら良いのではないか。


▲建設と不動産(A2012/01/05-7)
 東京各地でビル・百貨店建設ラッシュがおきているが、増えれば増えるほど、空室率があがり平均賃料が下がる、あるいは他店の売り上げを減らすだけで売上アップにつながらない。「丸の内1−4計画」「JPタワー」「大手町1丁目第二番地再開発事業」「大手町1−6計画」や、「iiyo!!」「丸の内永楽ビルディング」や、日本橋コレド室町」「YUITO」、渋谷「渋谷ヒカリエ」、新宿「新宿イーストサイドスクエア」、中野「中野セントラルパーク」「中野セントラルパークイースト」、六本木「虎ノ門・六本木地区計画」…など。


 …値下げ競争と同じ構造なのだろうか。共有地の悲劇にもにている。カルテルは困るが、こういう自滅も困ってしまう。この辺の対策ってどうなっているのだろうか、全然わからない。


▲「微博」実名登録制へ(A2012/01/31-13)
 twitterFacebookへのアクセスが禁止されている中国で運用が認められているミニブログ「微博」に登録する際、身分証、携帯電話の番号の申告を義務付ける。すでに北京、上海、天津、広州、深圳(しんせん)では新規登録者に適用されている。今後実施都市を広げる模様。「有害な情報」の規制が目的で、国務院新聞弁公室の王主任によれば、「有害な情報」とは、わいせつ情報、うそ、デマ、なりすまし、「社会の安定に影響を与える」情報だという。

2012年予定(国際関係中心)

■1月

◆予定

3日 アメリカ大統領選の共和党候補選びスタート
14日 台湾総統選・立法院選
22日 フィンランド大統領選挙
24日 アメリカ大統領一般教書演説
29日 アフリカ連合AU)総会(アディスアベバ
30日 EU首脳会議(ブリュッセル

日本通常国会スタート


◆ニュース


▲米共和党候補選び
 ・1月3日 アイオワ州
   サントラム(24.6%)、ロムニー(24.5%)、ポール(21%)、ギングリッチ(13%)
 ・1月10日 ニューハンプシャー州ロムニー氏の事実上地元)
   ロムニー(39%)、ポール(23%)、サントラム(9%)、ハンツマン
 ・1月21日 サウスカロライナ州キリスト教福音派有権者の60%)
   ギングリッチ(40.4%)、ロムニー(27.9%)、サントラム(17.0%)、ポール(13.0%)
 ・1月31日 フロリダ州(ヒスパニック系が有権者の15%)
   ロムニー(46%)、ギングリッチ(32%)、サントラム(13%)、ポール(7%)
 ・2月4日 ネバダ州(開票率70.4%の数字)
   ロムニー(47.6%)、ギングリッチ(22.6%)、ポール(18.6%)、サントラム(11.1%)



台湾総統選・立法院選
−総統選
 ・1996年 初の総統選→国民党 李登輝(り・とうき、リー・テンフェ)
 ・2000年 民進党 陳水扁(ちん・すいへん)
 ・2008年 国民党 馬英九(ば・えいきゅう、マー・インチウ)
 ・2012年 国民党 馬英九
   得票率:馬(51.60%)、蔡(45.63%)、宋楚瑜(親民党2.77%)
   中台は「一つの中国」という92年合意を基礎「統一せず、独立せず、武力行使せず」
   総統の任期は4年。3選は不可。 


−立法院選(=国会 定数113)
 :小選挙区比例代表並立制小選挙区73、先住民枠6、比例代表34)


 ・2012年
   与党・国民党(64議席)、民進党(40議席)、親民党(3議席)、台湾団結連盟(3議席


フィンランド大統領選挙 1月22日

・1982年〜 マウノ・コイヴィスト(フィンランド社会民主党SPD -中道左派
・1994年〜 マルッティ・アハティサーリフィンランド社会民主党:SPD
・2000年〜 タルヤ・ハロネン(フィンランド社会民主党:SPD
・2012年〜 サウリ・ニーニスト(国民連合党:KOK -リベラル保守

 −サウリ・ニーニスト:国民連合党、元財務相、親EU派 (得票率62.6%)
 −ペッカ・ハービスト:  緑の党、元環境相、親EU派 (得票率37.4%)


 *フィンランド議会
  ・一院制(定員が200名)
  ・非拘束名簿式比例代表制+単純小選挙区制(オーランド諸島代表)
  ・2011年6月〜 中道・左派6党連立政権
   ユルキ・カタイネン国民連合党首が首相
    :国民連合党(KOK)44、フィンランド中央党(KESK)35、左翼同盟(VAS)14、緑の党(VIHR)10、スウェーデン人民党(SFP)9、キリスト教民主党(KD)6


    :フィンランド社会民主党(SDP)42、真のフィンランド人(PS)39


米大統領一般教書演説
 ・富裕層への増税を含めた税制改革
 ・対中国、通商担当部局の新設を提案
  など


▲第18回アフリカ連合(AU)総会
 ・総会議長がベニンのトマス・ボニ・ヤイイ大統領に


▲EU首脳会議
 「将来の成長に向けた投資を維持した賢明な財政再建や、健全なマクロ経済政策、積極的な雇用戦略といった、一貫性がある幅広い措置をとった場合のみに成長と雇用は回復する」という認識
 ・財政規律の強化策を盛り込んだ新条約案を決定(英・チェコが不参加)
  −財政赤字国内総生産(GDP)比0・5%以内にすることを憲法などで義務化
 ・ユーロ圏の経済成長や雇用創出
  −労働市場改革と企業の資金調達環境の改善
  −中小企業支援による成長促進や雇用創出
  −若年層の雇用対策:学校卒業後数カ月以内に雇用、教育、実習、訓練の機会を提供


■2月

9日 ベルリン国際映画祭〜19日
25日 G20財務省中央銀行総裁会議

ギリシャ総選挙
復興庁発足


■3月

1日 EU首脳会議(ブリュッセル
4日 ロシア大統領選挙
5日 中国全国人民代表大会開幕
6日 super Tuesday(米大統領予備選挙
11日 東日本大震災から1年

消費税準備法案国会提出
TPP交渉会合(メルボルン)
アラブ連盟サミット(バグダット)


■4月

3日 ASEAN首脳会議(プノンペン
11日 韓国総選挙
22日 フランス大統領選挙

原子力安全庁発足


■5月

6日 フランス大統領選挙(決選投票)
15日 沖縄本土復帰40周年
16日 カンヌ国際映画祭
19日 G8(シカゴ)
20日 NATO首脳会議(シカゴ)
23日 OECD閣僚会議


■6月

18日 G20首脳会議(ロスカボス)
20日 国連持続可能な開発会議 首脳会議(リオデジャネイロ
28日 EU首脳会議(ブリュッセル

アジア安全保障会議シンガポール
フランス総選挙
エジプト総選挙(6月末までに)


■7月

1日 再生可能エネルギー特別措置法施行
1日 メキシコ大統領選挙

エネルギー基本計画、革新的エネルギー環境戦略の策定予定


■8月

27日 アメリカ共和党全国大会


■9月

3日 アメリカ民主党全国大会
8日 APEC首脳会議
11日 国連総会開幕

民主党代表選
自民党総裁


■10月

7日 ベネズエラ大統領選挙
8日 生物多様性条約COP11(インド・バイデラバード)
12日 IMF世界銀行年次総会
18日 EU首脳会議

米台頭両候補討論会
中国共産党大会


■11月

5日 ASEM首脳会合
6日 米大統領選挙 上下両院選挙
18日 ASEAN首脳会議(プノンペン
26日 国連気候変動枠組み条約CPO18


■12月

13日 EU首脳会議
19日 韓国大統領選挙

浜岡原発防波壁の完成予定




*国会の事故調査委員会
衆院決算行政監視委員会の「国会版事業仕分け

メモ

・2011年12月18日 朝日新聞 二面

「米統計局の11月の発表では、親の家に住む25〜34歳の男性は05年に比べて約35%も増えた。民間団体「無敵の若者」の調査では、この年代の約半数が家の購入を見送り、4分の1が結婚を遅らせた。「親の世代より暮らしぶりが悪くなる」と考える人は48%。なかでも白人は、ヒスパニック系やアフリカ系(黒人)に比べて、悲観する人が多い。」

 −親の家にすむ25〜34歳の人の統計 性別


・2005年『統計』

 親の家に住む20〜34歳の未婚者
  1980年 817万人
  1990年 1040万人
  2000年 1201万人
  2005年 1170万人


・2004年『若者の将来設計における「子育てリスク」意識の研究』
 
 将来の生活は経済的にどうなるか(25〜34歳)
  「今より豊かでなくなっている」 41.6%

メモ:落語家

落語家・諸派の布置、系譜のメモです。

上方落語の四天王
落語四天王
■その他
諸派
という分け方でまとめています。


上方落語の四天王(上方落語の復興を担った)


【1】3代目 桂 春団治(はるだんじ 1930−) 
  →春団治一門 … 4代目 桂 福團治(ふくだんじ1940−):上方落語協会理事(人情)

【2】5代目 桂 文枝(ぶんし 1930-2005) 
  →文枝一門  … 桂 三枝(1943年ー):上方落語協会会長
            (西川きよし笑福亭仁鶴と並ぶ吉本興業三巨頭の一)

【3】6代目 笑福亭 松鶴(しょかく1918-1986) 
 (5代目 柳家小さん三笑亭夢楽と親友)
  →松鶴一門  … 3代目 笑福亭 仁鶴(にかく1937年- )
             (月亭可朝桂三枝と共に吉本興業の顔)
          … 笑福亭 鶴瓶(1951−)(正確には2代目)

【4】3代目 桂 米朝(べいちょう 1925−) 人間国宝
  →米朝一門  
   … 2代目 桂 枝雀(しじゃく 1939−1999)
      →3代目 桂 南光(1951−)
      →桂 雀々(じゃくじゃく1960−)
      →3代目 桂雀三郎(1949−)
        →桂 雀喜(1969ー)

   … 2代目 桂 ざこば(1947−)
      →桂 喜丸(1956−2004)
      →桂 都丸(とまる、1955−)
   … 桂 吉朝(きっちょう、1954−2005)


落語四天王


【1】5代目春風亭柳朝(りゅうちょう、1929-1991) 
 (←師匠 林家 彦六(1895-1982)稲荷町の師匠)
 … 春風亭 一朝(1950−):落語協会理事
 … 春風亭 小朝(こあさ1955−)

【1】8代目橘家 圓蔵(たちばなやえんぞう1934−) 
 (←師匠 7代目橘家圓蔵(1902−1980))
 :春風亭柳朝の死後、橘家圓蔵が四天王に数えられた

【2】7代目立川 談志 自称五代目(1936年−2011) 
 (←師匠 5代目柳家 小さん(1915年- 2002年)落語家として初の人間国宝
 :落語立川流家元。笑点初代司会者。理論と感覚の両面から落語に挑んだ。
 :古典落語を現代的価値観・感性で表現しなおそうと試みた。
 …落語立川流
   →立川志らく(1963−)
   →立川 志の輔(1954−)

【3】3代目 古今亭 志ん朝(しんちょう1938-2001) 
  (←師匠 5代目古今亭 志ん生(ここんてい しんしょう 1890-1973)20世紀を代表する名人)
 :6代目笑福亭松鶴に心酔 6代目三遊亭圓生も敬愛
 :3代目笑福亭仁鶴と3代目桂春団治と親交
 …古今亭 志ん輔(1953年−)

【4】5代目三遊亭 圓楽(1932年- 2009年) 円楽一門会総帥・最高顧問
  (←6代目三遊亭 圓生(えんしょう、1900年1979年)大阪市西区出身の落語家)
 …円楽一門会
   →三遊亭 鳳楽(ほうらく1947−):円楽一門会会長
   →6代目 三遊亭 圓楽(1950−)現笑点メンバー。
    →伊集院光
   →三遊亭 好楽(1946−)笑点メンバー
   (←元師匠 林家 彦六(1895-1982)稲荷町の師匠)
 

■その他
・5代目古今亭 今輔(いますけ、1898−1976)日本芸術協会2代目会長
  →4代目桂 米丸(1925−)落語芸術協会最高顧問
   →桂 歌丸(1936−)落語芸術協会会長。笑点司会。
    →桂 歌春(1949−)

・6代目春風亭 柳橋(りゅうきょう1899−1979)日本芸術協会(現落語芸術協会)を創設 44年もの間、会長を務めた
  →3代目桂 三木助(1902−1961) 
    小さんと大親友 芝浜
   →9代目入船亭 扇橋(せんきょう1931−)
      師匠三木助死後、5代目柳家小さん門下
   →2代目柳家 小はん(1941−)
     師匠三木助死後、5代目柳家小さん門下

・3代目三遊亭 圓遊(1878−1945)
  →林家 彦六(1895−1982)=8代目林家正蔵
    →三遊亭 好楽(1946−) 笑点メンバー
    →5代目春風亭柳朝(1929-1991)
    →林家 木久扇(きくおう1937−)笑点メンバー

柳家小さんの系譜
  −初代小さん(??−??)4代目三笑亭可楽から、朝寝坊むらくを襲名(4代目)
  −2代目 禽語楼 小さん(きんごろう1848−1898) ←師匠 春風亭柳枝(三代目)
    →2代目 談洲楼燕枝(1869−1935)
    →3代目 柳家小さん(1857−1930)
      →2代目 松柳亭 鶴枝(しょうりゅうてい かくし1863−1923) 
      →初代 柳家小せん (1883−1919 師匠 4代目麗々亭柳橋死去)
      →初代 柳家三語楼(1875−1938)
         →初代 柳家 金語楼(1901−1972)「金語楼劇団」
         →7代目 林家正蔵(1894−)
         →4代目古今亭 志ん好(しんこう、1901−1994)
      →5代目 古今亭 今輔(いますけ1898−1976)「お婆さんの今輔
         →4代目 桂米丸(1925−):落語芸術協会最高顧問
         →3代目 三遊亭圓右(1923−2006)
      →4代目 柳家 小さん(1888−1947)
         →5代目 柳家 小さん(1915−2002)
            →4代目 桂 三木助(1957−2001)
            →9代目 入船亭扇橋(1931−):落語協会理事
            →10代目 柳家 小三治(1939−)落語協会会長
            →7代目 立川 談志(1936−)(5代目)落語立川流家元
            →6代目 柳家 小さん(1947−)落語協会監事

・初代林家 三平(1925−1980年)落語協会理事 
 →九代目 林家正蔵


■江戸時代の諸派
江戸桂派

柳派 滑稽噺
  :祖は初代麗々亭 柳橋(れいれいてい りゅうきょう)
  :2代目禽語楼小さん・3代目春風亭柳枝・3代目麗々亭柳橋・4代目柳亭左楽・3代目柳亭燕路・4代目桂文楽・2代目古今亭今輔などが活躍

三遊派 人情噺
  :祖は初代三遊亭圓生(1768‐1838)
  :門下に初代立花屋圓蔵(後の2代目三遊亭圓生)、初代古今亭志ん生、初代金原亭馬生、初代司馬龍生らを輩出して隆盛を極めた。


諸派の合併〜「落語芸術協会」「上方落語協会」成立まで

・1917年:8月柳派三遊派合併
 →「東京寄席演芸株式会社」(4代目橘家圓蔵、初代三遊亭圓右、3代目柳家小さん
      →「東京演芸合資会社
 →「三遊柳連睦会」(睦会)(5代目柳亭左楽


・1923年:「睦会」と「会社」合併→「東京落語協会」(→「落語協会」)
  古典落語
  1978年:落語協会分裂騒動 6代目三遊亭圓生が脱退
  1983年:立川談志一門が脱会。
  [歴代会長]
   :五代目柳亭左楽 三代目柳家小さん 五代目三升家小勝
   :六代目一龍斎貞山、五代目柳家小さん 三代目三遊亭圓歌、五代目鈴々舎馬風(現職)


・1930年:「日本芸術協会」 → 「落語芸術協会」設立(6代目春風亭柳橋柳家金語楼
  創作落語
  1959年:3代目桂三木助脱退。
  [歴代会長]
   :6代目春風亭柳橋 5代目古今亭今輔 4代目桂米丸 10代目桂文治 桂歌丸(現職)


・1957年:「上方落語協会」(3代目林家染丸、6代目笑福亭松鶴、3代目桂米朝、5代目桂文枝、3代目桂春團治、など18人)
  上方落語
  [歴代会長]
   :3代目林家染丸 6代目笑福亭松鶴 3代目桂春団治
   :5代目桂文枝 2代目露の五郎兵衛 桂三枝
  [主な会員]
   :松鶴一門 米朝一門 文枝一門 春団治一門 露の五郎兵衛一門 林家染丸一門など