遥洋子、2000、『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』を読む

先日、遥洋子著の『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』(2000年、筑摩書房)を読んだ。


 この本は、タレントの遥洋子が東大で上野千鶴子のゼミ(学部ゼミ、院ゼミ、講義、コロキアム:研究者を外部から呼んで議論するゼミ)に3年間通った経験をつづったものである。上野の元で、彼女の関心事であるフェミニズムを学びながら、「ケンカの勝ち方」を会得していく様子が、エッセイ形式でおもしろく書かれている。(*以下ページ数は文庫版)


 私がこの本で、考えさせられたのは知識と態度の関係である。理論と実践と言い換えてもいいかもしれないが、そんな体それた話ではない。


▲知識と態度の乖離
 本書中から、私がその関係について考えるきっかけを与えた場面を紹介したい。

 まず、「『結婚』とフェミニズムのシュールな関係」と題された文において、筆者は、「ゼミで、恋愛、結婚、家族、家庭、愛、あらゆる文化装置を疑ってかかることからジェンダーナショナリズムの関係性を暴くことを学習してきた」(129P)にも関わらず、その「専門家」でもあるゼミ生が「結婚する(したい)」と言うことに驚く。

 あるいは、「武闘派フェミニスト」と学生が呼んでいた女性と出会って、その「あくまで爽やか系好感度100%のおねーさま」具合に「ウッソー!」と驚く(「ジェンダーバランス」168p)。

 日本を代表するフェミニスト上野千鶴子のゼミにいる学生や、この「舞踏派」フェミニストも、ジェンダー論、フェミニズムの議論を学び、「結婚」や「女性らしさ」みたいなもののあやしさというか、女性にとって万々歳なものではないことを知っているはずである。にも関わらず、彼女たちは「結婚をしたい」と言い、「おねーさま」の恰好をしている。筆者はこの知識と態度の乖離に驚いているのである。筆者は冗談まじりでこのように言う。「武闘派フェミニスト」なら、「なんでパステルカラーなんだ?…迷彩色のシャツに刈り上げだろうが。なんで筋肉鍛えないんだ!なんで香水なんだ?汗だろう!やっぱ。」と(171p)。


 私も同じ感覚を持っていた。記号消費論の知識を得て納得したら、グッチとかシャネルに身を包むことはできないものだと思っていた。だから、私は知識として取り入れたものに実際の生活態度を合わせるという態度をとってきた。
 しかし、第一に、そうした「権力性」(といっていいのか?)の指摘や事実の認識と、態度とはつねにセットである必要はない。当たり前だけど。たとえば「あなたは社会の役に立つことがしたいといってるけど、それって根本は、そういうことをして自分がうれしい気持ちになりたいだけでしょ」と言われたとき、仮にそれが正しい指摘だと思ったとしても、だからといって「社会の役に立つことがしたい」という気持ちをやめたり、それを言うことをやめる必要はないのではないか。
 また、そもそも理論や知識と現実はピッタリとは一致せず、必ずズレが生じるものだということもいえると思う。自分の生活態度や現実を省みていないと、そのズレにすら気がつくことができない。自分は自分の信ずる知識・理論通りに生きていると思ってしまう。それこそ私は問題だと思う。


▲知識と態度の関係

 筆者は本書の中で、驚いているだけではない。上記の「ズレ」方の多様さを「ジェンダーバランス」という概念を使って示す。彼女によれば「どこがどれほどジェンダー化しているか」の地図がジェンダーバランスである。嗜好、思考、気配り、発想、視点、行動、表情、話し方、リアクション…など様々な面で、それぞれ「男性っぽい」「女性っぽい」という指標の間でどこかしらの位置をもっているという(これがジェンダー論の議論として適切かどうかはここでは関係ない)。これはつまり、たとえジェンダー論に共感し、完全に信奉していても、全ての側面が「ジェンダーフリー」にはなりえないことを説明している。
 
 彼女は自らのこともこのように告白する。
 「自分より背が高く、がっしりしていて、男らしい男性に…「守ります」と言われると、どうしようもない喜びを抑えきれない。…『ぼく、守る人、わたし守られる人』に、待ったをかけたのがジェンダー論なのに、それが幻想であることも暴かれているというのに、うれしいんだからしかたがない」(「ジェンダーバランス」169p)。
 「女は顔と歳とオッパイの大きさで仕事がもらえるから、化粧に精を出し、老けないように努力し、胸パットをいれる。他にどうしろというの、と思いながら、今日も私はせっせと谷間ブラを身につける。」(「美貌と巨乳と学問の価値」59p)

 このように、自分の生活態度の現実をきちんと見つめれば、知識と一体化などできるわけがないことがわかる。私は、自分でも薄々感じていたのに、これまで無視し続けていたことに、この本を読んで気がついた。

 ただ、これが単なる「居直り」になってはいけないとも思っている。例えば、フェミニストを名乗る人が、「結婚したい」と思うことは自由であるが、なんの考えもなしに、「結婚して、いい奥さんになって、幸せな家庭をつくりたい!!」とまで言ってしまっては、いけない気がするのだ(その場合フェミニストを名乗るべきではないと思う)。なぜならそう語ることで、「やっぱり女性はそう思ってるんだ」と男性に思わせてしまうことにつながり、フェミニストが目指してきた意識改革?にとって障害となりうると思うから。


 筆者が引用する上野千鶴子の言葉「ジェンダーが社会的構築物であるということを理解することは、それから逃れることが容易だということを意味しない」(上野、1995)も、居直りを許容していない。この言葉は「知識と態度の乖離はきちんと把握しろ、かといって居直るな」と言っているように私には聞こえる。そして私はその態度に賛成である。


以上


上野千鶴子「差異の政治学」『ジェンダー社会学』1995、岩波書店
・遥洋子『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』2000年、筑摩書房


――――追記――――


 この文章を書きながら、少し前に読んだ、清水幾太郎の『論文の書き方』を思い出した。


 そのⅦ章「経験と抽象との間を往復しよう」で、経験と抽象、すなわち私が態度と知識という言葉で表したものの間にある溝についての話がでてくる。

 清水によると、西洋においては日常の経験の世界で使われていた言葉が、一部を削り落され、一部を拡充されて、意味を厳密に規定しなおされて、抽象の世界の言葉となるが、日本においては、その抽象の世界の言葉=観念が育たなかったために、西洋から輸入して、それを漢字で表すという方法をとらざるを得なかった。こうして、抽象の世界の用語が、後に経験の世界を持ち込まれるという日本で見られる現象がおこるのだという。

 そして、このことが日本人が経験と抽象を往復することを困難にさせている。つまり、抽象的な観念は経験から生まれ出たものではないので、抽象的な観念として理解し、経験的には理解しないということが起こりうる。これが、私がこの記事で書いた、知識と態度の乖離および、態度の軽視(無視)につながったのではないかと思われる。


以上


清水幾太郎『論文の書き方』1959、岩波書店


東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ (ちくま文庫)

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論文の書き方 (岩波新書)

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