近藤理恵「リスク社会の存在論的不安と少年犯罪」(2003)

近藤理恵,2003,「リスク社会の存在論的不安と少年犯罪 ―佐賀バスジャック事件をもとにして―」『立命館産業社会論集』39(1).を読んだ。


この論文の目的は以下である。

本稿の目的は,近年の少年犯罪の特徴が,リスク社会において存在論的不安を抱え込んだ少年による犯罪にあることを明らかにした上で,存在論的不安が社会的排除のリスク,純粋関係のリスク,経験の隔離のリスクによってもたらされていることを明らかにすることにある。

あるいは以下のようにも言いかえられている。

本稿では,2000 年に佐賀バスジャックを起こした少年の例をもとに,近年の少年犯罪の特徴が,リスク社会において存在論的不安を抱え込んだ少年による犯罪にあることをA・ギデンズの存在論に依拠しながら明らかにする。その上で,存在論的不安がP・ブルデューが指摘しているような社会的排除のリスクとギデンズが指摘しているような親子関係における純粋関係のリスクや専門家システムの拡大による経験の隔離のリスクによってもたらされていることを明らかにする。

 結論から言えば、この目的は達成されていない。というか、「近年の少年犯罪の特徴」に関しては一切述べられていない。この論文は、佐賀バスジャック事件という特定の事件を起こした犯人が、どのような「存在論的不安」を抱えていたのか、そしてそれがリスク社会におけるどのようなリスクに基づいていたか、を説明したものである。
 しかし、その説明すらほとんど成り立っていない、ということをここでは明らかにしたい。


1.「近年の少年犯罪」について語られていない
 本論文には、「近年の少年犯罪」の枠組みに入る犯罪の事例は佐賀バスジャック事件のほかに二つしかでてこない。これらの代表性はどれほどのものなのか、なぜそれが「近年に特有」と言えるのか、なぜそれが「少年に特有」と言えるのか。そういったことが一切説明されない。若者論や少年少女論に対する批判的な研究はすでに多く蓄積されているが、そういった研究を無視して「少年に特有」「近年に特有」だと位置付けている点は問題であると思う。


2.「存在論的不安」の条件は全て満たされているか?(満たされる必要はあったのか)
 本論では、ギデンズの存在論的安心を確保するための条件を4つあげ(存在論的純拠点の創造、主観的死の克服、他者との信頼関係の構築、再帰的活動による自己同一性の確保)、事件の犯人がその全てにおいて失敗しているという形で論を進めるが、この4つでなければならない理由がわからないし、本当に4つすべて失敗しているのかすら疑問が残る。
 特に第三の条件「他者との信頼関係の構築」と第四の条件「再帰的活動による自己同一性の確保」に関して、犯人が本当にそれに失敗していたのか疑わしい。他者との信頼関係について、確かに学校での友人とは信頼関係の構築に失敗しているようだが、その他の場での友人関係(現在ではネットでの友人関係も十分ありうる)については述べられていない。また、親子関係については後に説明されるようにお互い親密な関係を組もうと努力していることは認められる。このことだけで「信頼関係の構築はあった」と言えるかはわからないが、妹とペットへの家庭内暴力だけで「両親に対して歪んだコミュニケーションしかとれなかった。」というのも言いすぎであろう。第四の条件に関しては、あまりにも情報不足で結論づけることは不可能であるように思われる。そもそも再帰的活動による自己同一性の確保など外的に確認できるものではない。断片的なネットへの書き込みだけで判断できるとは思えない。
 ついでに、「我々が誰であるかという感覚をもつためには,我々がどのように現在に至り,何
処へ行こうとしているのかについての考えを持たねばならない」というテイラーの言葉を引いているが、この言葉について、「我々がどのように現在に至り、何処へ行こうとしているのかについての考え」を持つことが、「我々が誰であるのかという感覚」と関係していることは確かだろうが、必要条件ではないだろう。筆者は、テイラーの命題の妥当性の検証を行わずに、犯人が「我々がどのように現在に至り,何処へ行こうとしているのかについての考え」を持っていなかったため、「我々が誰であるかという感覚」を持てなかったという仮説をたてている。しかし、測定可能な形で操作定義をしていない。これでは、本来検証など不可能なはずなのだが、日記とネットへの書き込みから仮説を支持してしまっている。日記とネットへの書き込みが、上記の変数と適切に対応しているかどうかも疑わしい。
 また筆者は、犯人が「存在論的不安」に至った直接的な原因として「いじめられていた」という敬虔を強調する。たしかに「いじめられた」という事実が「存在論的不安」の状態にいたる契機となった可能性は十分ある。しかし論文で、「容易に想像できる」という直感によって両者を結びつけてしまっては、「いじめられたから、不安になって人を殺した」という良くある語りと全く区別がつかない。


3.「存在論的不安」と「殺人」の関係が明らかでない
 「存在論的不安」に関しては、(不十分ながらも)丁寧な検討を試みているにもかかわらず、その「不安」が殺人につながったという部分については、全く検討なしに結論づけてしまっている。

 存在論的不安は,殺人のように他者に向けられる場合と,自己の身体を傷つける援助交際摂食障害,あるいは自殺のように自己に向けられる場合があるのではなかろうか。少年の場合には,社会的排除のリスク,純粋関係のリスク,経験の隔離のリスクによって自らの存在が消えそうになり,その存在論的不安が殺人という形で他者に向けられたように思われるのである。

 「思われる」という言葉をつかって、「存在論的不安」と他殺・自殺を結びつけている。しかし、この両者の関係はこれ以上語られることはない。はたして、「存在論的不安」は他殺・自殺を結びつけるのだろうか。


4.諸リスクと「存在論的不安」の関係が明らかでない
 冒頭で述べたように、この論文の目的は「存在論的不安が社会的排除のリスク,純粋関係のリスク,経験の隔離のリスクによってもたらされていることを明らかにすること」である。にも関わらず、これらのリスクと「存在論的不安」の関係は不明瞭である。
 「純粋関係のリスク」とは「人は存在論的不安を解消させるために他者との相互信頼を発展させ,心理的な安定をもたらす純粋関係を希求するが,純粋関係を希求すればするほど,逆に存在論的不安が増幅する」という状況を指し、それは「市民道徳(近代的な倫理)が衰退,崩壊したにも関わらず,他者に真正性を求める我々は,必ずしも他者の真正性を得ることができず,ヴァルネラブルにならざるを得ないから」と説明されている。しかし、この説明によれば、人は先に「存在論的不安」を持っていることになり、「純粋経験のリスクによってもたらされていること」の説明にはなっていない。
 つづいて、「社会的排除のリスク」について

 社会的排除のリスクとは社会空間の中の相対的に自律した多数の場,その下位の場,そしてその下位のミクロコスモスに散りばめられた大小の社会的排除が,誰を,いつ,どのように直撃するかもわからない状況を意味する。また,ブルデュー理論にしたがえば,それは,他者の負のレッテル貼りによって生じると同時に,身体的にはハビトゥスの分裂と,感情的には運命憎悪を伴う。

 と説明される。その後「少年」が「社会的排除」に不安をもっていた様子は描かれるが、それが先の四つの条件をもった「存在論的不安」とどのように関係していのかについては説明されない。まして、「社会的排除リスク」一般と、「存在論的不安」一般の関係に関しては一切触れていない。
 「経験の隔離のリスク」については、以下のように述べている。

ギデンズは,狂気,犯罪,疾病,死亡,性行動,自然などの現象を日常生活から切り離し,隠蔽することを「経験の隔離」というが,少年の両親も養育上の経験の隔離によって,家族の存在論的安心を確保しようと思ったのであろう。しかし,ここで着目したいことは,存在論的不安を解消するために近代に創出された経験の隔離は存在論的不安を解消しないという,経験の隔離の矛盾である。

専門家システム(「抽象システム」)の支配に基づく経験の隔離が,犯罪及び精神障害の問題,換言するならば,道徳や存在に関わる問題を完全に抑圧し,我々は新たな「道徳的不安定」を抱え込むことになるからである。
…本稿では,このように矛盾をはらんだ経験の隔離を,経験の隔離のリスクと呼びたい。

 家族が「家族の存在論的安心を確保しようと思った」いうことは、家族は「存在論的不安」をもっていたことになる。すると、家族の「存在論的不安」が、「経験の解離」を促し、そのことが「道徳的不安定」を生んだということになる。「存在論的不安」と「経験の解離」の因果関係が逆になってしまっている。しかも、少年を殺人へ向かわせた要因とされていたはずの「存在論的不安」はここでは、家族のものとなってしまっており、これまでの論が成り立たなくなっている。


■まとめ

論文の議論の流れは以下のとおりである。
 リスク社会の諸リスク → 存在論的不安 → 近年の少年犯罪

 このエントリーでは、それぞれのつながりが明確ではないことを指摘した。リスク社会で考えられる諸リスクがどのように「存在論的不安」を導くのか、その「存在論的不安」がどのように「近年の少年犯罪」を導くのか、というそれぞれの要素のつながり、関係性が明確でないためにこの論文はそれぞれの概念紹介にとどまっている。


・感想
 本論文は、主にギデンズの概念を参照していて、見た目は「学術風」なのだが、中身は上記で述べたように曖昧である。「存在論的不安」という心理的な要素を「近年の少年犯罪」に結びつけているところをみると、残念ながら、常識的に考えられることをアカデミックに表現して説得力をつけている、だけにみえる。
 そのことは、ギデンズの議論を批判しないでそのまま用いていることにも現れている。「ギデンズがいうから本当」とは私のような素人でも、思わないものである。ギデンズのような理論社会学者による理論や仮説は、具体的な事例におとすことで検証されるべきものであって、具体的な事例を理論社会学者の提示したものに無理やりあてはめる必要はないのではないか。いや、今回の事例のように、当てはめてみたらうまくいかなかった、という時こそ、意味があるように思われるのだが。
 理論社会学はどのように「使え」ば良いのかいまいちわからない。


以上


・近藤理恵、「リスク社会の存在論的不安と少年犯罪―佐賀バスジャック事件をもとにして―」『立命館産業社会論集』2003年6月 第39巻第1号