盛山和夫『叢書現代社会学 社会学とは何か』(2011)

盛山和夫,2011,『叢書現代社会学 社会学とは何か』ミネルヴァ書房


*後で読み返してわかりにくかったのですが、この記事で「筆者」とは盛山さんを指します。



■概要
 本書は2009年に刊行された叢書の一冊で、「刊行のことば」には以下のようにある。

「叢書・現代社会学」は、二一世紀初頭の日本社会学が到達した水準を維持し、それぞれ研鑽を積み上げた専門家が得意なテーマを絞り、包括的な視点での書き下ろし作品を通して、現代社会と社会学が抱える諸問題に答えようとする意図をもつ。

 「現代社会と社会学が抱える諸問題に答え」ることがこの叢書の目的である。叢書の第一冊目である本書『社会学とは何か』では、「現代社会の問題」として、人口減少の問題、持続可能な社会保障制度の問題、環境問題あるいは家族・国民国家・産業文明などの近代の枠組みや秩序原理への信頼の衰退などがあげられている(249-50)。また、これらの問題に対して共通に依拠することのできる理論枠組みや概念図式を社会学は持っていないということが「社会学の問題」として認識されているといってよいだろう(248)。そして、こうした諸問題の解決のために筆者は「共同性の社会学」という現代の課題に答えうる社会学の提案をしている。
 筆者もはしがきで述べているように本書は「教科書」的な側面を持っている。筆者は、教科書は「理念」を貫いていなければならない、と考えているが、実際に全体として一つの「理念」を貫く形で書かれ、その中でこれまでの社会学の仕事が紹介・検討されていく。この「理念」こそが、本書の題名「社会学とは何か」という問いへの答えとしての「共同性の社会学」である。
(逆にいえばこの「共同性の社会学」の理念に従って(?)、社会学の仕事が解釈・紹介される。紹介自体は丁寧でわかりやすいが、それがどれほど解釈として妥当であるかは疑問)


■構成
 本書の構成は以下のとおりである。まず社会学の対象である「社会」の特性の確認と定義が行われ(第一章)、その後「社会はいかにして可能か」という問いを中心にこれまでの社会学の検討が行われる。ジンメルを検討してこの問い自体の考察を行い(第二章)、「共同性」という概念を提出しながら秩序問題へと問いを敷衍するが、その際ホッブズ、スペンサー、パーソンズが検討される(第三章)。続いてパーソンズの「秩序」概念を手掛かりに、ウェーバーの客観性の定式化を批判しながら、社会学がこの問題に取り組むことの困難を語る(第四章)。その後、ホマンズやミード、コールマンらのミクロマクロ生成論(第五章)や、マルクス主義の階級論、高田保馬勢力論(第六章)、パーソンズマートンルーマンの社会システム論(第七章)、エスノメソドロジー構築主義(第八章)の考察を通じて、社会学がこの問題にいかに取り組んできたのかを論じ、その問題点を指摘する。筆者は社会学が規範的原理を打ち出すことが不可避であると同時に、そうすべきであると考え、現代リベラリズムの検討を行い、規範的社会理論はいかに可能かという問いに対する持論を展開する(第九章)。最後に、自らの考える社会学のあるべき姿を、社会学史に位置づけなおし、「共同性の学としての社会学」の方法論、対象、課題を確認して本書を締める(第十章)。


■「理念」の要約と感想
 次に、筆者のいう「共同性の学としての社会学」とはいかなるものなのか、この点を確認する。

 筆者は、個人を越えた社会や神の実在性は証明不可能であるとし、「実在するのは個人だけ」というベンサムの命題から始めることを提案する。その上で、個人が他人と社会を含む意味世界をそれぞれに生きていること、それは個人の間で一致しないと主張する。

 このように考えることで「他者問題」を解決、あるいは度外視することができる。「人々はいかにして<他者>という、自分とは異なる<人>の存在を認識するのか」と問うのが他者問題であるが(28p)、上記の考え方では、各個人がそれぞれの意味世界の中で、他人を自分と同じ<人>であると認識している、と答えることができる。筆者はそれを「そのように想定されている」(34)と表現している。
 残念ながら筆者はこれ以上この議論には踏み込まない。なぜ、そのように想定されるのか、されうるのか、に関しては、「『他者』がいること、ここの振舞いをする存在は自分と同じ人間であること、他者には心があること」という前提的な知識(「自明視された仮説」)を前提にすることで成り立っている、と述べるだけである。しかし、他者問題とはそもそもそこを問題にしたものではなかったか。なぜそのような前提が成り立つのか、これを問うのが他者問題であったはずだ。筆者は「日常的な認識」の理解で十分だ、と考えているので、他者問題は扱わないという宣言だとみなさなければならないのかもしれない。


 「他者」と同じように、それぞれがそれぞれの仕方で「社会がある」と考えることで社会が成り立つ、と筆者は考えている。そしてそのような意味世界によって社会が成り立っていると考え、探究をする社会学を「意味世界論的社会学」と呼ぶ(28p)。このように、個人の「意味世界」から社会の成立を想定するため、意味世界を論じていないミードの議論や、階級を実体視するようなマルクス主義、「意味世界の中の存在でしかない」システムをそれとは独立して存在すると考えるシステム論を批判する。
 他の箇所でもそうだが、どうも筆者は学説史上の議論を単純化するきらいがあるように思われる。私の知る限り、少なくともルーマンは意味世界の外にシステムなるものを想定してはいないと思う。ここで批判されるために持ち出される学説理解の正しさについては専門の方々の話を聞いてみたい。


 さて、では、このような意味世界としての社会的世界はどのように学問的に探究することができるのだろうか。筆者は、構築主義がとったような社会的世界、意味世界から距離を置く方法を取らずとも、外部に立たなくても客観的なものは目指せる、と述べる(256p)。そもそも社会学者自身は社会的世界という対象の中からは出られず、内部から意味世界考察しなければならない。そして、社会学者も当事者として社会的世界の中にいるということは、「対象社会の意味世界の規範的および事実的妥当性に対して、関心をもつということ」を意味する(242p)。当事者が、自らの属する社会のよりよい秩序状態を望むのは当然といえる。ここから筆者はさらに、社会学は規範的な秩序構想の学問であらざるを得ないと主張する(261)。
 規範的原理を建てる際に、筆者は現代リベラリズムがとるような超越的視点を退け、バラバラの意味世界を前提に、それらに共通に受け入れられることができるようなものを新しく探究するという方法を提案する。仮説として提示された「意味解釈」や「価値」を、「より客観的なものへ」という価値の追及を共有する人々が吟味しあうことで、より共通に受け入れることのできる意味や価値が現れる、というプロセスである。
 そしてこのような「共同性」を、経験的な共同性とそれを越えた規範的な共同性を探究する学問こそが社会学である、と筆者は主張するのである(255,264)。



 社会学者も当事者として社会的世界の中にいることは理解できる。しかし、そのことと学問としての社会学が「規範的な秩序構想の学問」でなければならないことはつながるだろうか。この重要な箇所に関しての説明は不十分であったが、一種宣言文のようなものなのでいくら説明されても筆者と問題関心を共有できない限り理解できないのだろうなとも思った。4章のウェーバー批判もあまり納得できなかったが、この辺りの学説史解釈については疑問を持ち出したらきりがないし、私にはこの場で丁寧に検証する力がないので、ここまで。
 筆者の議論は、道筋としては「バラバラの意味世界 → 規範的共同性」という順だが、実際には「規範的共同性」の定立という目標が先にあって、そのために「バラバラの意味世界」を前提にした、というような印象を受ける。本当に私たちは「バラバラの意味世界」を生きているのだろうか。それぞれの「社会」しか持たないのだろうか。これってこれまでの社会学の歴史を全否定するような考え方だと思ってしまうのは私だけ?