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清水幾太郎『論文の書き方』(1959)

清水幾太郎,1959,『論文の書き方』岩波書店


■本書の内容
 本書は社会学清水幾太郎が、論文の書き方について自身の経験に触れながらエッセイ風に書いたものである。ここで「論文」というのはあとがきにあるように、「内容及び形式が知的であるような文章」のことを指す非常に広い意味である。具体的には「大学の卒業論文やリポート、また組合を初めとする各種の団体や運動の中で必要になる論文や報告、それから、種々の懸賞論文、講演や演説の草稿」などである。詩や小説やもちろん、自然科学の論文や「大学者の大論文」、修士論文、博士論文などは念頭に置いていない。
 筆者は文章を書く、ということを能動的で積極的な事であると捉えている。そして、論文を書く際にはそれを強く意識する必要があることを何度も強調する。「が」という語や引用の多用、「あるがままに」書くといった行為は、書くことの積極性を放棄しているとして注意を促す。その上で、語の定義や論理関係の大切さ、経験的世界と観念的・抽象的世界の往復の大切さなどを説く。
 それぞれ具体的な文章作法のアドバイスとしては21世紀に生きる私たちにとってそれほど目新しいものではない。実際清水自身も、古くから文章のルールと言われてきたものを自己流に言い変えたものだと言っている(208)。
 本書がおもしろさは、当時の時代の雰囲気を知ることができたり、筆者の軽快な文章を味わえたりすることができるということもあるが、それだけではなく節々に現れる、物事に対する筆者の鋭い視点である。特に言語についての言及が多いが、そのどれもが唸ってしまう。


■雑感
・会話分析
 筆者は三章で、話し言葉と書き言葉の違いについて語る。エッセイなので学問的に分析しているわけではないが、ここで指摘されていることは、「会話分析(CA)」という学問方法にとって重要な指摘だと思われる。
 筆者に依れば、話し言葉は、言葉以外の様々な要素が絡み合っており、それらが言葉を補うと同時に、言葉に制約をかけるという性質をもっている。具体的には、1.目の前に相手がいること。これは自分と相手の間に一定の関係があり、これによって発する言葉が変化することを示す。 2.共通の具体的な状況の中に立っている。時空間を共にしていることで、お互い了解済みの事項が大変多い。例えば晴れていること、あるいはニュースで原発が話題になっていること、などである。これによって、様々な事を言葉にしない状態で会話が進むと考えられる。また、清水はさらに、たとえ了解済みでなくても、会話の中で了解済みの事項を増やしていくことこそが「会話の発展」であると言っている(63p)。3.表情や身振りが使われる。これも言葉にも現れないが、会話において非常に重要な要素である。清水は、文中で言葉ではまだ言い終わっていないが、ジェスチャーで相手が理解しうなずいたら、その時点でこの先は言葉で言う必要がなくなる、という例をあげ、「言葉と身振りは融け合っている」と表現している。4.社交の原則を守らなければならない。これは人間関係に限らない、会話それ自体の社交性というものも含む。これについては後述する。
 会話分析において、その会話のコンテクストは非常に重視されてきた。というより、会話分析の基礎となるエスノメソドロジーという考え方自体が、文脈依存性を強調し、文脈から乖離した従来の社会学を批判したのであった。しかし、初期の会話分析は、テープレコーダーを使っており、無意識に「言葉」の自律性を前提にしていた。「会話の終了」(シェグロフ=サックス1973)という概念に、清水が指摘したような言語外の要素はどれほど意識されていただろうか。
 当然、会話分析内でも反省が加えられ、例えばC.グッドウィンはビデオデータを用いて会話分析をはじめ(1981)、以後ビデオデータを用いた分析は盛んになった。清水が指摘した、言葉と身振りの融け合っている様の分析がはじまったのである。こうしてみると、1959年の清水の直観的な指摘は非常に鋭かったと言わざるを得ない。


 ところで、清水は「社交の原則を守らなければならない」という話し言葉の特徴に関して、おもしろいことを述べている。すなわち、会話の面白さは、一部分を軽く否定し、相互の一致や同意を確認し合うところにあるというのである(66)。日常会話では、ずっと賛成したり、ずっと反対したりすることはありえず、最終的に一致や同意へ軟着陸する。たしかに「ずっと反対」では、会話は終わることができない気さえする。なんらかの形で「反対」を取り下げてはじめて会話が終わることができるのかもしれない(これは必ずしも譲歩を意味しない。「あぁもう!いい!」というような形であれ、反対であるという主張を取りやめることをいう)。


*清水はここで国立国語研究所監修雑誌『言語生活』の「録音器」という欄を紹介している。この欄では、様々な日常会話が文字化して記録されている。言い間違えや間違った言葉づかいもそのままなので、執筆者による修正はあまりないように思われる。戦後すぐの会話を文字でそのまま読めると言うのは非常に貴重な資料だと思うのだが、この資料って有名なのだろうか…。


・メディア論
 最終章8章で、清水は文字、ラジオ、テレビの違いについて触れる。ここでの彼の分析がおもしろかったので紹介する。
 先ほど、話し言葉は言葉以外の様々な要素が絡み合っており、それらが言葉を補うと同時に、言葉に制約をかけるという性質をもっている、という清水の説明を紹介した。これに対して書き言葉は孤立無援であると清水はいう。話し言葉で補われたような要素はほとんどない。ラジオも同様である。ラジオは「話し言葉」ではあるかもしれないが、会話のように相手との共通了解もないし、表情身振りもない。清水はラジオが「日本語を試練の場所へ引き出した」と述べている(191)。話し言葉は、積極性をもたずともあらゆる助けによって、理解でき、理解させることができたが、この助けがなくなることによって、理解させる努力、理解する努力を要するようになったということである。これは文を書くのと似ている。語が何を指すのかを明確にし、論理関係を明快にしなければ通じないのである。清水はラジオを日本語を鍛えるものとして見ていた。
 一方、清水が本書を書いている時代にはすでにテレビがあった。テレビは言葉がメインの話し言葉よりもさらに、抽象度が低い。映像そのものが見えてしまうからだ。ある花について語るときも、「花」がどんな花かをわざわざ説明する必要はない。映像を見せれば済んでしまうのだ。だが、映像で表現できないものもある。清水はそれを抽象的観念と未来とする。「今後の文章は、映像になるものの言語化という仕事から解放されて、映像にならぬものに全力を傾けることが出来るであろう」(206)と清水は予言している。
 テレビやラジオの登場によって文字による数千年の独裁が終わったと清水はいう。テレビやラジオは有力な「競争者」として文字の前に現れたのだ。映像で提供できてしまうものの描写で文字がテレビに対抗するには、テレビが無かった時代にはない工夫が必要となるだろう。あるいはテレビの持つ視聴の気軽さ、手軽さに対しても、文字は工夫を強いられると思われる。実際にこういった工夫は行われているのであり、簡単に「住み分けしている」といって済ましてしまうとなにも見えなくなってしまう。例えば、ケータイ小説ライトノベルスはそれまでの小説と比べ、非常に気軽に、手軽に読むことができる。これはテレビやマンガなどの競争者が現れたからこそ現れた形態であると思う。また書籍の文字の大きさ、デザイン、空欄のあけかた、色やページの使い方、など、メディアそれ自体への工夫も行われている。このように、文字は競争者の出現以来様々な工夫を行っているのである。文字の独占体制が崩れた、とは言い得て妙である。


 *ついでに私がこれを読んで気になったのは、映像によって「映像にならぬもの」がいかに表現されているか、である。それは映画や芸術的な作品のことを言っているのではない。普通のテレビ番組でも、全く具体物を持たないものだけを扱っているわけではない。「優しさ」や「感動」あるいは「恐怖」「運命」、もしかしたら「理性」「批判」なども扱っているかもしれない。そういう時、どのように映像化しているのか、しようとしているのかを見ると、それらの言葉が捉えられやすいイメージというものが見えてくると思う。


清水幾太郎の予定調和?
 清水幾太郎の認識でほとんど唯一疑問に思った点がある。それが予定調和的な真理観?である。もちろんカーの『新しい社会』の訳者でもある清水はそれほど強くその念を持っているわけではないと思うが、たまに見え隠れする。例えば五章の「文章は建築物である」という節。この節は、文章を作るということは自然的状態から秩序を「人為的」に作りだすもので、混沌から自然自らが形作られるわけではない、ということを説明する場面である。この「構築」的側面を強調している場面でも、人間が人為的に作りだした秩序は「現実そのものが密かに欲していた秩序」だと言うのである(109)。あるいは「現実そのものが精神に向かって秘かに望んでいたものである」(116)という。ここには、なにか人間の恣意的な構築作用を越えた秩序・建築物が存在するような認識がみてとれる。現実を人間が作りだす、という認識はあるにも関わらず、それによって作りだされた現実は結局そうなるよう望まれていたものだ、というのはいかにも予定調和的である。時代の制約だろうか。


・その他

 以上紹介したこと以外にも様々なことについて清水は述べている。そのどれもが鋭く、おもしろい視点で書かれていて非常に楽しく読むことができた。最後に二点清水が触れていた点に関して述べる。
 一点目は、教育に関してである。清水は日本の教育が「書くこと」の訓練を全く行わなくなったことを危惧していた(綴り方教育にも肯定的ではない)。「書く力」の必要性については、中身は様々ながら、清水以外の論者によっても現在まで何度も繰り返し叫ばれてきた。現在、学習指導要領に「言語活動」というキーワードが盛り込まれ、教育界を騒がせている。これがどのように機能するかはわからないが、清水の願う文章、あるいは言語使用能力の育成につながるのだろうか。
 二点目、文字数に関して。清水は文章の能動性、積極性を意識するために字数制限を課すことが大事だとしている。削ぐという能動的な過程を経て、文章は書けるのだと。彼は、朝日新聞の「槍騎兵」欄という600字制限の短評欄に頻繁に執筆していたが、この600字の困難と効果を説明している。私はこれを読んだ時に、近年話題の「140字」が頭に浮かんだ。誰かさんも、140字という短い字数制限におさまるように文を推敲することで、文を書く力が付くと述べていた。600字制限は清水の身に浸み込み、「何を見ても、何を考えても、それが最初から六百字の世界に嵌まって現れるようにな」るまでになったという。そのうち、「何を見ても、何を考えても」140字になって見えてくると言う人がでてくるかもしれない。
 清水の本を読んだにも関わらず、全く「能動性」のないダラダラした文章を書いてしまった。ブログだとどうも字数を気にせず書いてしまう。今後気をつけます(今後かよ)。


以上


論文の書き方 (岩波新書)

論文の書き方 (岩波新書)