ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論』

ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論――テロ・戦争・自然破壊』2010、筑摩書房(島村賢一訳)
Ulrich Beck
・Das Schweigen der Wörter: Über Terror und Krieg, Suhrkamp, Frank-furt a. M. 2002
・Weltrisikogesellschaft, Weltöffentlichkeit und globale Subpolitik, Picus Verlag, Wien 1997
の訳書(2003年平凡社の文庫版)の紹介をする。考察はこちら


ウルリッヒ・ベック (訳者解説を参考に)
 1944年当時ドイツ領のポンメルン地方シュトルプ生まれ、現在ミュンヘン大学教授のドイツ人社会学者。ドイツ国内では、多くの新聞、週刊誌でアクチュアルな政治、経済、社会問題について発言、オピニオンリーダー的役割を果たしている。
  70〜80年代半ばまでのベックは主に職業・労働研究をしていたが、その後は1986年チェルノブイリ原発事故や、70年代からのドイツ国内におけるエコロジー運動、平和運動フェミニズム運動など「新しい運動」高揚をうけ、様々な領域を総合した現代社会論を展開している。その集大成が1986年の『Riskogesellschaft: Auf dem Weg in eine andere Moderne』(『危険社会――新しい近代への道』1998年 法政大学出版局)で、これをきっかけにベックは広く知られることになった。この本の中でリスク社会論や個人化論についてすでに述べられている。
 その後このリスク社会論を精緻化していき、様々な著作を世に出す。その中で近代への考察も深めていき、到達点として1996年『再帰的近代化』を上梓することになる。その後はこれらを踏まえたグローバル化論を考察し、世界リスク社会論を展開、雇用、労働、テロ、政治論といったアクチュアルな問題を世界リスク社会論の視角から分析している。


■要約


▲「言葉が失われるとき ――テロと戦争について」
Das Schweigen der Wörter: Über Terror und Krieg, Suhrkamp,2002


 原著は同時多発テロ発生から二カ月後に、ロシアの国会での講演という目的に書かれたもの。ベックはこの講演で「世界リスク社会の概念を説明し、この地平において、一連の概念を批判し、新しく規定することを試みたい」(pp24)と述べている。ここで、批判する一連の概念とは、1.「テロ」と「戦争」 2.「経済のグローバル化」と「新自由主義」、3.「国家」と「主権」という概念である。
 非常にわかりやすい構成なので、同じ順番で要約する。


1.世界リスク社会とはなにか
 ベックによれば「世界リスク社会」とは、言語と現実が乖離した社会である。人類は自分たちを取り巻く様々な危険に対処すべく社会を作ってきた。近代とは、その危険を予測可能で、制御可能なものにしようとした時代である。リスクとは、そのような予測可能な危険といえる(喫煙によるがん発生率など)が、それは「決定」を基礎としている。このようなリスク、リスクを扱う言語や制度が、ベックのいう「言語」であり、「言語と現実との乖離」というように、その「言語」が現実と乖離してしまっているこの社会を世界リスク社会と呼んでいるのである。
 では「現実」とはなにを指しているのか。「リスク」という言葉で想定されている予測可能性や、制御可能性ではとらえきれない現状、リスクを扱う言語や制度が機能していない現実のことを指しているが、それは原発事故や同時多発テロのような特殊な事象だけを指しているのではなく、遺伝子工学、コンピューターサイエンスなど私たちの普通の日常を構成している様々なものを指している。これらの危険の影響や結果は範囲を持たずグローバルに広がっていくため、予測や制御が不可能なのである。つまり、決定の影響が決定者に回収されない状況といえるだろう。
 世界リスク社会とは、このような現実を踏まえ、言語と現実の乖離、つまり現実がこれまでの近代的なリスク概念や制度ではとらえきれない、対応できなくなっていることを謂っているのである。


 世界リスク社会における危険をベックは、生態系の危険(環境問題)、世界的な金融危機、テロの危険性(国境をこえたテロのネットワーク)の三つの次元に区分する。この「グローバルな危険」はそれぞれ二面性を持っている。つまり、一方でグローバルな危険を認識することで、それに対処するための新しい政治的リスク共同体がうまれる可能性があり、他方でその危険にさらされる人/さらされない人が恣意的に線引きされてしまう可能性があるのである。


 ベックは、以上のことについて先に示した概念批判を通して具体的に検証していく。


2.「テロ」と「戦争」という概念
 「テロ」や「戦争」という概念は、「言語と現実」の「言語」に当たる。つまり、上の文脈でいえば、それらは近代的概念であるリスクを扱う概念であるため、それで現実を捉えることは不可能だというわけである。


 これまで「戦争」は暴力を独占した国民国家(の軍事組織)同士の戦いが想定されてきたが、脱領土的、脱中央的な犯行者ネットワークが台頭し、国家の暴力の独占が不可能であることが示された。このグローバルな行為者の存在と国家や市民社会への脅威は「戦争」という概念ではとらえきることができない。
 また、テロリストたちは、国境を越えたネットワークを持ってはいるが、自爆犯の行為は全くの単独のものといえる。自分で犯行を自白し、自己抹消を行ってしまった時点で、因果関係は失われてしまい「テロを指令している国家や黒幕に責任を帰すること」はできないのである。


 このような「戦争の個人化の一歩手前」(pp38)の状況では、あらゆる人が「潜在的なテロリスト」となり、そのような疑いをかけられる。その結果として、治安の為に国家同士が結び付き、市民の管理が強化され、同時に市民たちも各国家、政府に対抗するために結び付くようになってしまう。
 このような状況をさけるために、ベックはテロに反対する国際的協定が必要だと主張する。国際的協定によって、国家を越えてテロリストを追求できるようにすると同時に、テロによる被害をうけた国家による私刑を禁止し、国際司法裁判所の規約を通して罰するようにするのである。


3.「経済のグローバル化」と「新自由主義」の概念
 ベックは9.11のグローバルなテロが、「経済のグローバル化」の生み出す対立がどのようなものかを示しているという。このような危機の時代において「新自由主義」は政治的な答えを提出することはできない。ベックは、テロの攻撃目標であることを理解しながらも、航空機の安全を民営化したアメリカを例にあげ、新自由主義は国が崩壊するまで自らを新自由主義化し続けるというのだ。


 新自由主義は、経済のグローバル化を推進し国家を越えた規則を作ることにこだわってきたが、そのようなグローバル経済における危機や対立を調停する組織や形態がなければ、安全は保障されないし、それゆえ世界経済は存在しえない。従って、法によって統制された組織や形態が必要になる。ベックはその主体は国家とは限らないとする。むしろグローバル化という不可避な過程を理解し、「経済のグローバル化コスモポリタン的な意思疎通の政治と結び付けることが必要」だと主張し、新自由主義が生み出す危機を、新しい政治的リスク共同体によって制御せよと呼びかける


4.「国家」と「主権」の概念
 「国家」という概念も揺らいでいる。金融危機や異常気象、テロなどのグローバルな危険を前にして、国家は自国の利益の為であっても(であるからこそ)、各国と同盟を組み、脱国家化しなければならなくなっている。国内の安全と国際的な協力が分かちがたくなっているのである。
 そしてこのことをベックは、国家が「自己決定権の縮減の結果として、主権を獲得する」と言い表している。これまで「自己決定権」と「主権」という言葉はあまり区別されてこなかったが、世界リスク社会においては、二つを区別して考えなければならない。グローバルな危険に対して、他国と協調することは、主権を共有化することになるが、それは主権を減少させるよりむしろ「国家の主権の潜在能力を高め」るとベックはいう。


 民族主義の問題は、国家とネーションを分離することで、国家と宗教の分離においてなされたような結果が期待できる。もちろんその際国家は、「国境を超える民族的、国民的、宗教的アイデンティティの共存を、立憲的寛容の原則によって保障しなくてはいけない」。


5.ベックの主張
 これまで、ベックの時代診断の部分を中心に要約してきたが、最後にベックの主張する部分を要約する。
 上述のようにベックはこの世界リスク社会の可能性に注目している。簡単に言えば、グローバルな危険に対峙することで、グローバルな協力体制が成立しうるし、する必要があるということである。ベックはこの協力体制に関して三つの側面から語っている。一つ目は国際的な法基盤である。当然グローバルな協力体制に関して法的な基盤がなければ機能しないので、法基盤が必要になる。具体的には軍事力の権限や、裁判所の所轄、反テロ体制などをあげているが、詳細な考察は示されていない。二つ目は、そのようなグローバルな協力体制の構築においては「対話」の重要性である。グローバル化を脅威と見る国々に配慮し、またそれによって新たなテロリストを生み出すことを防ぐために、協力体制の約束は文化的、外交的な対話によってなされるべきだと説いている。最後に、グローバルな協力体制といっても、全世界均一なものを要求するのではないということ。各地域がその地域に適した協力構造を作りあげることが重要であるとベックはいう。以上がベックのグローバルな協力体制(「連盟」)に対する考えである。


▲「世界リスク社会、世界公共性、グローバルなサブ政治」
Weltrisikogesellschaft, Weltöffentlichkeit und globale Subpolitik, Picus Verlag, Wien 1997


 こちらは1987年以来ウィーン市役所で行われ続けた「20世紀の終焉における人類の大きな課題と生存をめぐる問いに関する連続講演」の一つとしてベックが行った講演である(1996年執筆)。
 冒頭には以下のように語られている。

世界リスク社会の自己理解において、社会というものは反省的なものです。そのことは、第一に社会が自分自身を主題と問題にするようになるということを意味し、グローバルな危険がグローバルな共通性をつくり出し、まさに(可能性としてありうる)世界公共性の輪郭を形作っています。第二に、文明の自己危険化の認識されているグローバル性は、政治的に形成されうる衝動を、協調的な国際機関の育成や創設に向かわせることになります。第三に、それは政治的なものから境界を取り払うことになります。つまりグローバルで同時に直接的なサブ政治の配置図が生まれ、そのような状況は国民国家的な政治の協調と協同を相対化し、ぐらつかせ、「本来であれば互いに排除し合うような信念の世界的な同盟」に至ることになります。

 ここでわかるように、ベックの基本的な考え方はそれほど大きく変わっていない。従ってこちらでは上であまり詳しく述べられていなかった部分を中心に要約する。具体的には、構築主義への言及とサブ政治の概念について確認する。
 要約を始める前に全体像を把握するために、目次を記す。


1.世界リスク社会論の準拠点
 i.  自然とエコロジーという概念のあいまいさについて
 ii.  現実主義・構築主義論争
 iii. 自然と社会の差異の社会構築、およびその社会学的再構築について
 iv.  保障可能性の限界
 v.  グローバルな危険の類型学

2.世界公共性とグローバルなサブ政治の徴、成立条件、表現形式
 i.  サブ政治の概念について
 ii.  シンボリックに演出された大衆ボイコット、グローバルなサブ政治のケーススタディ


 上で見た「言葉が失われるとき」では、グローバルな危険がある程度自明の下して語られていた。9.11の直後ということも影響していたのだろう。こちらの講演では、冷戦が終わってから9.11までの比較的安定した時期であったため、「グローバルな危険」というものが設定されることについて、その政治性(「制度性」)に配慮しながら述べられていく。


「グローバルな危険」の認定
 「環境問題」に対して本質主義(「現実主義」)は、産業生産の潜在的な副作用として(自然科学的に診断される)グローバルな危険が存在し、問題がある、とする。この場合、グローバルな危険が実際に存在するとみなすのであるから、グローバルな公共性と行為に関する討論の場や超国家的な制度の準備がスムーズに行うことができる。
 これに対してベックは、その危険の自明性が、どのようにつくりあげられるのか、という問いを無視しているとして批判する。社会構築主義は、そのような問題がアジェンダとして設定されているということを前提するため、超国家的な連携はそのようなアジェンダを立てる「言説の連合」(pp84)とみなされる。ベックはこのような構築主義的な見方を採用しながらも、「純粋に構築主義的な構築主義」(pp87)に対しては以下のように批判する。 まず、自らを唯一の構築主義であると主張することによって、現実主義と同様の誤りをおかしていること。
 そして、出来事としての破壊と、その出来事を語ることの区別をつけていないこと。このように批判し、ベックは「一定の反省を経た現実主義」(pp87)の立場をとる。それは、「現実」が構築されていることを前提としつつ、その構築を通して、「どのように自明性というものがつくられ、問題がどう切り取られ、解釈の他の可能性がどのように『ブラックボックス』のなかに閉じ込められていくのかということを探究」(pp87)することに焦点を合わせている。


「サブ政治」
 グローバルな危険に対して、「言葉が失われる時」は国際的な制度や協力体制という上からのグローバル化について述べていたが、下からのグローバル化については少し触れる程度であった。この講演では、むしろ「下からのグローバル化」に焦点が当てられている。これが「サブ政治」である。
 これまで見てきたようにグローバルな危険は、国境を越え、個人に直接届く。そのことによって、全ての行為の分野(政治、経済、科学、私的領域…)で、代議制的な意思決定の制度を「通り越し」て、個人が政治的決定に「直接的」に参加できるようになる(あるいはそれが発見される)。これが「サブ政治」。
 ベックが注目するのは、このサブ政治は、それまでの政治が従っていた抽象的な意味での「制度」を構築しなおす可能性を持っているからである。

決定的に重要な事は、サブ政治が政治的なものの規則と境界をずらし、解放し、網目状に結び付け、ならびに交渉できるものにし、形成可能なものすることによって、政治を解き放つということなのです。(pp116)

 サブ政治におけるグローバルな連帯・共同体が、各国政府の政治と異なるのは、それぞれの問題に対する運動ときちんとした政策の実現とは別問題であることである。サブ政治の特徴は、全く異なる関心、信念、利害を持つ人々が、たったひとつの問題に関して一気に連合し、影響を及ぼすことであるが、それは企業や政府が、その行為を公共性に適ったものへと方向づけるような圧力へと転じる。


 こうしたサブ政治的な行動に影響を与えるのは、単純でわかりやすく、ショッキングな「文化的象徴」(シンボル)である。ここでいう単純とは以下の5つを意味する。すなわち、各人が理解しやすいこと、道徳的な意味合いを含んでいること、政府政策と矛盾しないこと(必ずしも合致しなくても良い)、多様な行為によって呼びかけに応えることが可能であること、その行為を行うことによって罪悪感が取り払われるとい事(良いことした気になること)である。こうした文化的象徴の伝播を担うのはマスメディアであるが、「問題の構造的な性格を一方で発見し、他方では行為を可能にするようなシンボルを、誰が、どのようにみつける(つくり出す)のかということが決定的な問題」(128pp)である。いずれにせよ、こうして作りだされたシンボルに導かれた市民の抵抗が、単発で終わらず様々に結合すると、直接的な権力になっていく。産業資本主義は、それが生み出した危険によって結合した市民によって修正されうるのである。これがベックがサブ政治という概念を通じて主張しようとしたことである。


・こちらの講演では、他の論者への言及が多いので、一覧を付しておく。

・マイヤー・タッシュ(注で言及135,本文75)
ベーメ(注で言及135,本文75)
・M.シュヴァルツ、M.トンプソン(注で言及135,本文75)
・R.ヒッツラー、ファン・デンデール(注で言及135,本文75)
・M.エクセル(注で言及136、本文76)
・マルギット・アイヒラー(注で言及136、本文78)
・メアリ・ダグラスとアーロン・ウィルダフスキーpp79
・マールテン・ハイエールpp84(→94ppでも)
・ブルーノ・ラトゥールpp89(及び注137、97)
・シャーリーン・スプレットナクpp91
・イネストラ・キングpp91
・ダナ・ハラウェイpp92、97
・シャーピングとゲルグ(引用93)
・E.ベッカー(注で言及137,本文93)
・マールテン・ハイエール(94,96、97pp)
ウェーバー(101)
エヴァ・ゼングハ−ス=クノプロッホ109pp
・リチャード・フォーク112pp
マルティン・メルツ、クリスティアン・ヴェルニッケ113pp
・リチャード・フォーク、バート・ファン・スティーンバーゲン113pp
・ヴォルフガング・ボンス114pp
トーマス・ホッブズ115pp
・イマニュエル・カント124pp
・ラングドン・ウィナー124pp
・ルイス・マンフォード124pp
・アンドリュー・ツィマーマン125pp
・フィリップ・フランケンフェルト125ppにて引用
ボードレール128pp


世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫)

世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫)