開沼博、2010、「原子力ムラの秩序はいかにして可能か」

*2011/05/21 更新(論文の要約に当たって、「システムの維持を促す要素/システム崩壊を抑制する要素」という区別をやめ、「直接的な順機能/間接的な順機能」という区別を採用し、要約全体を整理しなおしました。)
*2011/05/25 更新(論文執筆者(開沼氏)による「原子力ムラ」の定義を引用させていただきました)
*2011/06/01 更新(開沼氏の修論やその他のメディア情報を追記しました)


開沼博、2010、「原子力ムラの秩序はいかにして可能か」、ソシオロゴスNo.34、pp105-24。


 朝日新聞に文章が掲載され、ニコ生にも出演した(らしい)話題の開沼博さん。修論提出したばっかりの学生さんらしいのですが、噂によるとなんとその修論の出版が決まったらしいです*1。おめでとうございます。

 さて、なんとなく名前は見たことあるなと思いつつもあまり気にしていなかったのですが、今日家の棚にあったソシオロゴスを何気なく開いていたら、開沼博の文字が。あ!と思って掲載された論文を読んだので、まとめてみました。(前置きが長くなりました)
 *「筆者」「論文執筆者」とは開沼博氏をさし、「私」のがこのブログ記事執筆者(=Pada)を指します。混乱していてすいません。


■要旨
 この論文は、政治・経済・文化的無秩序を引きおこす「リスクが高い」原発及び関連施設が、それを持つ地域でいかにして維持されているのか、という問いに、フィールドワークと資料分析を通して答えようとするものである。
 筆者は原子力ムラ(*1)をシステムととらえ、システムが「自己存続」する様をインタビューや資料から多面的に考察する。その際、システムを維持させている諸要素(*2)を提示しそれぞれについて論じているが、ここではそれらをシステム維持に寄与する「直接的な順機能」と「間接的な順機能」にわけてまとめる(論文執筆者は政治、経済、文化的という3側面からまとめている)(*3)。
 「直接的な順機能」とは、文字通りシステムの維持を直接的に促すような働きをするものであるが、原子力ムラ原発に経済的に依存していることがそれにあたる。原子力ムラでは、原発によってもたらされる税収をあてにした無駄遣いが行われ、しかもそれが継続的な歳出となるものであるために原発依存をやめられない状況がある。これが「原子力ムラの秩序」直接的に維持させている。
 一方で、システムを崩壊の危険にさらす要素を抑制する「間接的な順機能」が存在する。例えば、「原発は危険だ」という認識は、原子力ムラの秩序を崩壊させる可能性があるが、原子力ムラではそのような認識は獲得されない。まず個人レベルでは、各人が原発の危険性を無効化する論理を持っている。例えば筆者は、交通事故の確率などを引き合いに出しながら、原発は危険だけどいちいち心配していられない、と話す住民を紹介している。また、危険性を声高に主張する雑誌やテレビ、インターネット等に対して人々は不信感を抱いており、ここでも危険性の認識は制限されている。さらに、(これがシステム維持にとって重要な事だと思うが)、原子力ムラがムラ内の反対派を「許容」してしまっているという事実がある。反対派はムラでは「変わりもの」とされてはいるが、そのような形でそこでの存在が認められている。これによって、反対派のシステム崩壊への力が無効化されてしまっている、と筆者は言う。反対派は異物としては認識されておらず、推進派と奇妙に共存してしまっているのだ。
 このように直接的・間接的に原子力ムラの秩序を維持するよう機能する要素が多数存在している。こうして(this is how)、原子力ムラの秩序が維持されているのである。


*1原子力ムラ」の定義

原子力ムラ」とは、原子力発電所とそこで生じた使用済み燃料の処理・処分等を行う原子燃料サイクル施設などを中心とした施設、つまり、原子力施設を保持する地域をさす。(105p)

 また注(3)において、ムラとカタカナを使った理由を、「都市とは違った産業や自然発生的な共同体の結び付きといった部分での共通する特色を残している小規模な地域」であることを考慮したことを説明しつつ、以下のように書いてある。

 客観的に財政状況等をみてその運営に原子力がなくてはその運営がありえそうにもない小規模な自治体、という意味において「原子力ムラ」という言葉を使うこととする。

*2論文執筆者は、「要素」という語は用いていない。

*3「直接的/消極的な順機能」という洗練されていない用語は私が即席で作ったもの。


■考察
 原子力発電所に関しては、住民運動に焦点を当てたものはみたことがあったが、「それにもかかわらず」維持されていることに注目し、その秩序に焦点化したものは初めて読んだ*2
 外から見るともっと反対運動が起きても良いと思われるのに、なぜ原子力ムラは維持されつづけるのか、この視点は非常に面白いと思う。しかし、いかんせん短い論文のため、この論文だけでは物足りない気になってしまう。例えばこの論文では「なぜ」を禁欲している。原子力ムラが外部と断絶してしまうのはなぜなのか。なぜ住民は、危険性を軽視してしまうのか。要するになにがその秩序を維持させているのかといったことには踏み込んでいない。筆者は何を危険と感じ、「リスク」をどの程度を想定するのかは、立場によって変化するという構築主義的な立場を取るため、「本当は危険なのに、<なぜ>彼らは危険じゃないと考えてしまうのか」と問うことに慎重にならざるを得ないのかもしれない。
 とはいえ、構築主義的な立場に立っても、彼らがなぜ「危険だ」と判断しないのか(しなかったのか)は問えると思う。彼らが、危険性を低く認識するための論理が出来上がっていった過程や、メディアを信じなくなっていった過程を検証することで、浮かび上がってくるのではないだろうか(<危険性は増えているのに><変わっていないのに>という前提を置かないという姿勢は大事にすべきだが)。また、こうした作業を通して見えてきたことは、原発に限らず様々な場面における「外から見るとリスクが高い行為が、なぜ内部では維持されるのか」という問い一般への回答にもつながるのと思う。
 これと少し関連するが、筆者は「なぜ」は問わない一方で、このシステムのほころびのきっかけについては注で示唆している。筆者は鬼頭秀一の「よそ者」的視点に注目し、この視点の有無がシステムの変動の有無を左右している可能性を指摘する。「なぜ」を問わなくとも、システム変動の契機を指摘することで、実践的な意味が備わる。システム概念を使って非常に静的な秩序を描いている論文ではあるが、同時にシステムのほころびを指摘することでその変動をも視野に入ることを示している。この視点はよりスリリングで面白いと思った。
 また、著者もtwitterで言っているように*3、「なぜ」と問わないことでシステムが維持される様子が冷たいリアリティを持って現れてくる感じを受けた。そういう意味ではなぜを封じたことも一定の成果をあげているといえるのかもしれない。
 最後にもう一つ付け加えると、原子力ムラを維持させる要因に関してすぐに思いつくのは交付金等の経済的依存だろう。筆者も触れているようにこれが原子力ムラの維持に大きくかかわっていることは言うまでもない。しかし、これだけの指摘では常識を上塗りするだけでありおもしろくない。筆者がとったのは内側の人々の「認識の仕方」を問うという方法である。各個人、各集団によって現実の認識の仕方は異なる。この意味で現実は多元的である。その多元性のリアルを、(小説などではなく)実際の聞き取り調査等で示そうとした点がこの論文をおもしろくさせている。インタビュー対象者の数、および現地滞在期間が少ない/短いのは少し気になるが。


■おまけ
・本文で紹介されて気になったもの。
1.有名ミュージシャン・アーティスト中心に行われている「ストップロッカショ」運動。
2.東電女子サッカーマリーゼ
3.「原子力最中」(もなか)
4.定期検査の際に雇われる短期流動労働者によるルポ。
  堀江邦夫、1979、『原発ジプシー』現代書館
  →2011『増補新装版 原発ジプシー』現代書館:原文全文+書下ろし「跋文」+その他
  →2011『原発労働記』講談社:『原発ジプシー』の加筆修正版

原発労働記 (講談社文庫)

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原発ジプシー 増補改訂版 ―被曝下請け労働者の記録

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■追記
 

○「福島原発事故 「信心」捨て自ら考えよう」(朝日新聞「私の視点」 2011年03月29日)
 この中で「私たち素人は…あらゆる情報を集め、比べ、選び取り、いま何をすべきか常に考え続ける必要がある。無根拠な「信心」をいまこそ捨てるときだ」と言っている。新聞用のスローガン的な言い分なので、深く突っ込むのはアンフェアですがこの「あらゆる情報を集め」云々については考えなきゃいけない大事な部分なので今度機会があったら記事書きたいと思います。


○「東大大学院生が集めた「原発と生きる」12人の証言」『文藝春秋6月特別号』P214-223


○著書『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生れたのか』
 2011年6月16日に、論文執筆者の修論が出版されるようです。タイトルは『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生れたのか』と、「なぜ」が入っていて私の「考察」が虚しいものに思われますが(笑)、なんにせよ楽しみです。
こちらから、要旨及び佐野眞一氏、上野千鶴子氏、姜尚中氏による推薦文が読めます。)

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか




以上

*1:2011年6月16日『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生れたのか』青土社

*2:筆者に依れば似たような問題意識の論文に、山室敦嗣「原子力施設立地地域における地域集団と施設の関係性―茨城県東海村農業者クラブの事例から―」(2000、『地域社会学年報』第12集)があるそうだ。

*3:http://goo.gl/3YuPJ