浜日出夫、2006、「羅生門問題――エスノメソドロジーの理論的含意」

■浜日出夫、2006、「羅生門問題――エスノメソドロジーの理論的含意」富永健一編『理論社会学の可能性』新曜社


 中学生のころ、友人と一緒に学校から帰る時によく話した話題を今でも覚えています。


「おれが見てる赤は、おまえが見てる赤とちがうかも!」
「たしかに!でも、そしたら色だけじゃなくてあの信号の形もバラバラなんじゃね?」
「たしかに!やばっ!お前の信号どんなん?」
「いやーふつーに四角くて、灰色で…」
「四角ってどんなよ!灰色ってどんな色だよ!笑」
「苦笑… で、でも形まで違ったら触った時に、なんか変になんじゃね?」
「たしかに…。」
「うーん。じゃやっぱおんなじもん見てんのかー」


 こんな会話を飽きもせず、何度もしていた記憶があります。○所くん、憶えていますか?高校に入学して、カントの認識論などを勉強したり、大学でヴィトゲンシュタインと出会ったりして、既にいろんな人が考え尽くしてた事なんだということを知ってなんだかがっかりしたものです。しかし、こうした説明に納得してしまい、自分の疑問をきちんと見つめていなかったと思い知らせてくれたのが、今回紹介する論文です。初出は、1995年『社会学ジャーナル』(20)に掲載された「エスノメソドロジーと『羅生門問題』」ですが、今回扱う論文の方がわかりやすいのでこちらを扱います。



■要旨
 社会学ではパーソンズの定式化したホッブズ問題が唯一の秩序問題であるかのように語られることがあるがそうではない。ガーフィンケルがシュッツに依拠しつつ提起した「もう一つの秩序問題」がある。
 パーソンズが、解決すべき問題として想定していた事態は、「複数の行為者[が]…『同じ』対象の獲得を目指す」(273pp [ ]内引用者)中で現れる闘争である。しかし、ガーフィンケルは、各人が「同じ」ものをみているという想定それ自体に疑問を投げかけた。「複数の行為者のあいだでの対象の『同一性』はいかにして可能か」(ibid)と。
 これに対するガーフィンケルの解答は、「信頼」であった。同じものがある、という保障はどこにもないし、同じものをみているという保障もない。それでも私達がそのように思って、生活できるのは「信頼」の作用である、と。「信頼」とは、人が、1.自分にそう見えていると思う 2.自分に見えているように相手にも見えていると思う 3.相手も相手が見ているように、自分が見ていると思っていると思う、というような三つの期待のセット(「構成的期待」)のことである。実際がどうかは関係なく、このような信頼によって現実の「同一性」は成り立っているのである、とガーフィンケルは説明する。
 この論文では、ガーフィンケルの違背実験、会話実験を、このような仮説の証明のためのものと位置付け、整理されている。例えば「三目並べ実験」。三目並べのゲーム中に突然相手の駒を動かしたら、被験者はどのように反応するのか、という実験である。被験者の反応は三通り見られた。1.秩序=ルールの維持を前提に、相手がルールを無視したととらえる 2.秩序=ルールが変更されたと理解するが、代わりの秩序は見いだせない 3.秩序=ルールが変更され、別のゲームが始まったと理解し、新しいゲームを続ける。 この実験の3番目の反応をみると、秩序を支えているのはルールではなく「信頼」であることが良く理解できる(逆に言えばルールは「信頼」が基礎にある限りにおいて妥当するにすぎない)。


■考察
 要旨では省いたが、ここでガーフィンケルはシュッツの同一説をとっていることが論文内で説明されている。同一説は「知覚された対象と具体的対象とは同一である」(274pp)と考えるので、世界の複数性が導かれ、ある意味必然的にこの「もう一つの秩序問題」へつながるのである(浜氏も注でシュッツが「行為の企図の選択」論文で、そのような問いを立てていたことを指摘している)。
 冒頭の中学生時代の私の話に戻すと、私と友人が考えたように、やはり世界は人によって見え方がバラバラなのである。しかし、中学生の私がガーフィンケルになるためには、問いをこのように変えなければならなかった。世界はバラバラなのに、なぜ普通に生活できるのか、なぜ同じだと思ってしまうのか、と。このように転換できていれば問いも深まっただろう。問いの立て方がいかに重要であるかがよくわかる。
 さて、シュッツやガーフィンケルなど(ウィトゲンシュタインクリプキも登場する)の著作からこうした問題意識を拾い上げ、「羅生門問題」として定式化している(名前の由来は黒澤明監督の映画「羅生門」から)この論文では、ホッブス問題と「羅生門問題」を別次元のものとして区別し、「羅生門問題が信頼によって解決された段階で、次にホッブズ問題が現れる」としているが、この区別はそのような段階的なものではないように思われる。すなわち、羅生門問題が未解決な状態でもホッブズ問題は起こりうるし、場合によっては羅生門問題こそがホッブズ問題へとつながるのこともあるのである。「複数の行為者が同じ対象の獲得を目指して争う」という事態は、第三者の視点による説明であるが、当事者において「同じ対象」と認識されているかどうかはわからない。それぞれ別のものとして認識しつつも、その対象(それが完全に一致しているのかはわからない)の獲得を求めることは十分ありうる。両者が共にその対象を獲得する正統性を主張している時など、そのような認識のズレが前提にあるのではないかとさえ思われる。羅生門問題は、単に知覚や認識の問題にとどまらず、規範的な意味での社会秩序問題へと直接繋がっている問題なのである。


 視点は少し異なるが、認識の問題が規範的な意味での秩序問題へとつながることは、別のところで浜氏自身が論じている。「危機としての生活世界――シュッツの"discrepancy"概念」(2004年『年報社会科学基礎論研究』(3))という論文において浜氏はシュッツのdiscrepancyという概念に注目して、「よそ者」論(1944)や「帰郷者」論文(1945)、そして「平等と社会的世界の意味構造」(1957)といったシュッツの論文を例に、知覚や認識、解釈図式の「不一致」は、差別や偏見などを生み出し、維持させる可能性があると指摘しているのだ。
 認識の不一致は、それが問題化され統一しようという動きが生まれる時、マイノリティの側への強い圧力がかかることになる。厄介なのは、認識の不一致は経験できるものではないことである。A=B、B=C、だからA=Cという論理は、AやBやCを全く異なるように経験している人にとっては全く無効なのであるが、相手にとってのAやBを経験することはできないし、そもそもそこに不一致があると想定することすら困難なのである。このように、羅生門問題は、必ずしも規範的な意味での秩序問題と区別されたものとは限らず、規範的な意味での秩序問題と連続した問題であるといえるのである。


 中学生の時の単純な疑問を、もう一度考えさせてくれるきっかけ(出会い)を与えてくれた論文に感謝したい。

理論社会学の可能性―客観主義から主観主義まで

理論社会学の可能性―客観主義から主観主義まで



■おまけ

ドゥルーズのカント批判
 本文とは直接関係ないが、人間の認識と現象の一致の問題について最初に問題化したのはカントである。しかし、ドゥルーズは、カントにおいてその解決が人間の諸能力(構想力、悟性など)の「調和のとれた行使」とされていることを、つまり諸能力の「調和」が前提とされてしまっており、なぜ調和がとれるのかが問題視されていないことを批判した。
「美的形態を産出する自然の物質的素質を考察する際も、われわれはそこから、この自然が必然的に我々の諸能力の一つに従属するとは結論できず、ただ、我々の諸能力の全体と自然とが偶然に一致していることを結論しうるのみである。」
「自然の資質は、目的なき力として、われわれの諸能力の調和のとれた行使に、たまたまた適合するものとして現れるのである。」
(ドゥルーズ『カントの批判哲学』筑摩書房 國分功一郎訳 110p)


ヴィトゲンシュタイン
 最初に私と友人の素朴な疑問を紹介したが、この疑問に答えようとした哲学者として最初に思い浮かぶのはヴィトゲンシュタインである。彼はまさに「色の概念が異なる人は存在しえないだろうか」という問いを立てた。これに対する直接的な答えは、存在したとしてもだれもそのことを確認できない、という常識的なものになるのだが、ではなぜ色の概念が異なるかもしれない人と普通に生活ができるのだろうか。
 ヴィトゲンシュタイン言語ゲームという概念を持ち出す。要するルールがあるから、ということである。ただし、ここでいうルールは、普段私達が青と呼んでいる色を「青」と呼ぼう、というルールではない。それなら最初から不一致など起きえない。そうではなく、「青」と名づけられたものを他の色と区別し「青」と呼ぶというルールである。人は「青」を「青」と呼び、問題なく生活している。そしてルール(社会)への参入者は、そのルールを獲得することによって参加することができるのである。「は??」という感じかもしれないが、これ以上のことは言うことができない。「青」を「青」と呼んで生活する人が続く限りにおいて「青」は「青」であり、そのように問題なく生活できる限りにおいて人は自分のみる「青」が他の人のみる「青」と同じだと確信して生きていくのである。
 ガーフィンケルはこれを人と人の間の「信頼」と呼び、言葉に限らず人がどのようなルールを(無意識/意識的に)作っており、それに従っているのかを明らかにしていった。ヴィトゲンシュタインが先に存在するルールに人々が入っていく、あるいはルールの中でルールを学んでいくといった側面に注目したのに対して、ガーフィンケルは人々がルールを作り上げていく、あるいは人々の行為によって維持されているという側面に注目した。ガーフィンケル以後、社会学でこうした側面が強調されていく一方で、人間によるルール作りや変更はあくまでルールに入ってから可能なものである、という点が見直されてもいる。