メモ:「普遍と特殊」

最近メモばっか


・個人
 −あいつは俺とは全く違う種類の人間で、全く異なる性質を持つ
   →だから、違いを認めよう。異質な他者への寛容。
   →だから、対話は本質的に不可能。
 −あいつと俺は本質的な部分は同じ。
   →だから、違いがあってもみんな仲良く。人類みな兄弟。
   →だから、違いがあるのはあいつがおかしいから


・時代
 −そんなの昔からずっとあったことだよ
   →今さら騒ぐのはおかしい
    (→なんで「今さら騒」いでいるのか?)
 −それは最近になってでてきたことだよ
   →長い歴史があるかのように言うのはおかしい
    (→なんで「長い歴史があるように」語られるのか?)


メモ (強調はすべて引用者)
・稲葉さんの記事2010-07-20

近代特有の何ものかを歴史貫通的・人類普遍的な何ものかと勘違いするという罠を回避した一方で、「近代性」を実体化し、それが「近代」という時代固有の何ものかである、という錯覚に陥ってしまった可能性が。しかし「近代性」とは「近代」において目立つようになった何事かではあるにしても、決して「近代」固有のものではなく、古代にも中世にもまたあるいは「ポストモダン」においても発見されうる契機であろう。
 たとえば近代以前は拡大家族が主流であり、単婚小家族、あるいは核家族世帯が一般化するのは近代以降、というかつて広く信じられていた俗説は、少なくともヨーロッパなどいくつかの地域においては覆されて久しい。となれば問われるべきは「にもかかわらず「核家族イデオロギー」とでも言うべきものはたしかに比較的新しく、かつては実態から乖離した「大家族イデオロギー」的なものがたしかに成立していた。それはなぜか」ということになるだろう。
 しかしこうした事情に無自覚なままに「近代性」にこだわることは、自らを「近代」という閉域へと追い込むことに他ならない。

・稲葉さんの記事 2011-07-29

しかしながら森によるこうした「教育」の自明性の解体は不十分なものに終わっているのではないか。何となれば森はここで「教育」という対象の存在を自明視し、それを卒然と分析する営みとしての「社会学」には就いていないが、「教育」という対象の自明視を解除し、それを生み出す「学校」という仕組み、そしてそれを取り巻く「近代」というコンテクストを分析する営みとしての「社会学」の可能性に対しては、それほど深刻な懐疑を見せてはいないからだ。

(略)

社会学」もまた「近代」の所産であり、「近代」固有の知である、と考えるべきではないのか。となれば社会学」という営みは「近代性」の自己省察でなければならない。…「社会学」は「近代性」についての自覚的な科学であらねばならないが、その課題は「近代性」の外に脱出することによっては達成されえないのである。

(略)

…「近代性」の学としての社会学は、恣意的という意味で「自由」な選択として「近代性」を対象とするわけではない。社会学は否応なく「近代性」の一部なのであり、むしろ社会学とは「近代性」によって語らされているのである。むろん誰しもが「近代性」によって語らされているのであり、社会学とはせめてそうした拘束を自覚しようという運動である


 対象の歴史性を自覚して、それを生みだす仕組みを特定の時代と結びつけて分析しつつ、そのような分析の仕方自体、同じ時代と結び付いていることの自覚ってどんなんだろうか。わかるけど、わからない。