リスタート

Hume, D. 1742, "OF ESSAY-WRITING" (エッセイを書くことについて)

近年、ヒュームのエッセイに注目が集まっているようです。

「エッセイを書くことについて」と題された非常に短い文章でヒュームの考えに少しだけ触れることができます。


これはヒュームの『道徳・政治・文学論集』というエッセイ集に収録されているもので、英語はこちらで公開されています。
http://www.econlib.org/library/LFBooks/Hume/hmMPL40.html#cc1

この論集は最近全訳が完成し、発売されました
→田中敏弘、2011、『ヒューム 道徳・政治・文学論集[完訳版]』名古屋大学出版会。


■要旨
 人*1には、the learned(学者)とconversibleな人の二種類がいる。前者は長時間の勉強と厳しい訓練を通って高度な心の働きを行う人で、後者は社交的で会話を楽しみ、知性を気軽にまた柔軟に用いる人である。両者の交流がないと、the learnedは難解な文章や現実離れした結論で世間と乖離し、conversibleな人は全くの無駄話に終始してしまう。この両者を媒介するのが「エッセイ」である。
 conversibleな人の主な性は女性*2であるので、女性を無視するわけにはいかない。女性は、趣味が繊細で、また(同程度の知性をもつ)男性より書物をより良く判定することができる。実際、隣国では学問の世界でも女性が大きな位置を占め、その判断が尊重されている。ただし、女性は優しさや恋愛に弱く、女性に対して慇懃な文章や、信仰に関する書物に対して公正な判断ができなくなってしまう。従って女性があらゆる種類の書物に慣れる必要がある。


■感想
 啓蒙主義的な考え方が底流にあることは否めないけれども、このようなエッセイの考え方は「おしゃべりな世界」にいる私にとっては歓迎すべきものである。
 新書ブームなどの影響でヒュームの生きた時代よりははるかにエッセイ的なものが増え、広く読まれるようになったが、学者世界の人の中にはエッセイを軽視する人は少なからずいる。一方で、「おしゃべりな世界」にいる人や、学問を愛でる素人の中にもエッセイを軽視する人がいる。これはヒュームのいうようにもったいない事態のように感じる。ヒュームは自身が哲学者であることもあり、学者と「おしゃべりの世界」の架橋に学者側を想定したが、現在はその役割を「おしゃべりの世界」の側が担うこともよく見られる。先に述べたエッセイ軽視の人の多くは、このような形で書かれたものを特に軽視する。しかも、エッセイを重視する・しないが一種のスタイルとなった感があり、特に理由なくエッセイを軽視したり、エッセイを重視するといいつつ実質的に重視しないことが起きているように思われる。
 またさらに言えば、両者の架橋に文字の役割が重視されすぎているようにも思う。視覚・聴覚・触覚メディアの発展に適した活用方法があるはずだが、まだ一部の人々にしか使いこなせていない。私も含め、文字メディアに慣れているせいで文字メディアに頼ってしまうことが多いが、これは多様な可能性をみないようにしていることに自覚的であるべきかもしれない。


*ヒュームのいうエッセイは現代日本で使われる「エッセイ」よりはかなり「堅い」ものを指していたが、ここではそういう細かいことは気にしない。



ヒューム 道徳・政治・文学論集 [完訳版]

ヒューム 道徳・政治・文学論集 [完訳版]

*1:ただし、動物的な生き方を送る人を除き、心を働かせる人に限る

*2:ただし思慮分別があり、教育のある女性