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和歌を読む0――文学史復習

 「和歌」は私にとって遠い存在です。学校で学んだものの、そのほとんどは忘れ、たまにふとウェブで検索して良さそうなものを探す程度のものでした。少し時間ができたので、いつか「和歌を楽しむ」ことができるようになるために基礎知識をおさらいしようかなと思い立ちました。「楽しむ」前にとりあえず読んでみよう、というものです。「実況動画」のように、私が触れたものをそのまま感想を述べながら紹介するので、勉強にはご利用なさらないでください。念のため。
 なるべく深入りせず、しかし自分の眼で確認しつつ、万葉集古今和歌集新古今和歌集など有名な歌集をよんで行きたいと思います。とりあえず、和歌に限らず文学史を簡単に(?)復習したあと、「歌とは何か」について本居宣長と香川景樹と紀貫之の言葉を読んでイメージをつかみたいと思います。



文学史復習
 *作品の成立年は正確なものではなく、その頃という程度のいみです。


上代(太古〜平安京遷都)
 4,5世紀に漢字が流入し、日本人は文字社会へと移行した。個の中で、祭式の場でうたわれた「うた」が変化した古代歌謡、それがさらに個人的なものに姿を変えたことでうまれたとされる歌謡を記録しようという機運がうまれてきた。現存する最古の歌集は8世紀後半『万葉集』であるが、ここには4世紀のものとされる歌も収められている。同時期にまとめられた『古事記』(「『古事記』を読む」)『日本書紀』『風土記』が(純粋・変体)漢文体で書かれているのに対し、『万葉集』(「和歌を読む1」)は漢字でかかれているものの、日本独自の言語を表記するために「万葉仮名」が使われている。


 漢字の流入ともに、大陸の思想、文化も流入し、7世紀には日本人による漢詩文の創作が行われ、後に漢詩集『懐風藻』として残されている(751年)。同時期に日本初の本格的唐風都城である藤原京も建てられている(698年)。


▲中古(平安京鎌倉幕府成立)
 貴族が政治・文化を担った中古は、主に唐風文化の時代と、国風文化の時代にわけることができる。桓武天皇平安京建設から国造りまで中国大陸から多くのことを学び、採り入れた。こうした中で漢詩文は公的文学の位置を与えられ、『凌雲集』(814年)をはじめ、『文華秀麗集』(818年)、『経国集』(827年)など多くの勅撰漢詩集が次々と成立した。菅原道真もこの時期の人で、左遷される前に『菅家文草』(900年)、左遷後に『菅家後集』(903年)を残した。漢詩文集はその後も『和漢朗詠集』(1013年)や『本朝文粋』(1028年)など漢詩文集が編まれた。
 しかし、徐々に日本独自の文化が盛んになり、894年遣唐使の廃止後国風文化の勢いは加速した。万葉仮名が略されることでうまれた「ひらがな」や、カタカナを用いた漢文の書き下し文が生まれることも独自の感情を表現することに資したであろう。こうした中で和歌が見直され、歌合、屏風歌なども盛んになった。その集大成として『古今和歌集』(→「和歌を読む2」)が勅撰和歌集として編まれることになった(905年)。公式文書に漢文しか使われない時代において、女性のための文字であるひらがなの序文を持ち、ひらがなで書かれた和歌集が勅撰で編まれることは画期的であった(漢文の序文もあるが)。その後も『後撰和歌集』(951年)『拾遺和歌集』(1005年)『後拾遺和歌集』(1086年)…『千載和歌集』(1188年)まで多くの勅撰和歌集が編まれた。鎌倉時代の『新古今和歌集』(1205年)もこの流れの中に位置づけられる。勅撰和歌集以外にも、私家集、歌論なども書かれていった。


 この時期はまた、伝承されてきた伝承、神話、説話などと中国文学の影響が結び付き、「物語」という新しい文学形式が生まれた時期でもあった。『竹取物語』には竹取翁説話、羽衣伝説、求婚難題説話などが用いられている。このような作り物語には他に、『うつほ物語』(974年)、『落窪物語』(985年)がある。こうした作り物語とは異なり、『伊勢物語』(905年)のような和歌を主題においた歌物語も生まれ、これには『大和物語』(951年)、『平中物語』(960年)などがある。
 藤原氏摂関政治を確立し、その全盛期を迎える頃、後宮に住む女官たちによる作品がうまれた。紫式部の『源氏物語』(1010年)はその後多くの作品に影響を与え、例えば『夜の寝覚』(1055年)、『狭衣物語』(1070年)、『浜松中納言物語』(11世紀後半)などが作られた。
 もともと公的記録として漢文で書かれていた日記は、かな文字の表現力と結び付いて思ったことや体験を素直に表現するものとなった(仮名日記)。和歌の名人であった紀貫之は『土佐日記』(935年)で、漢文では表すことのできない口語的で素直な文章をひらがなを使うことで表現した。これが女性に仮託性書かれたこともあって女性の日記文学を促し、『蜻蛉日記』(974)、『和泉式部日記』(1008年)、『紫式部日記』(1010年)、『更級日記』(1060年)、あるいは『枕草子』(1001年)や、『成尋阿闍梨母集』(1073年)、『讃岐典侍日記』(1109年)などが生まれた。
 平安時代末期になると、物語文学が衰退し、歴史を回顧する歴史物語が台頭した。これらは私的な物語風の歴史書で、『栄華物語』(1028年)、『大鏡』(1114年)、『今鏡』(1170年)などが書かれた。


 このほか仏教が浸透していくにつれ『日本霊異記』(823年)、や『三宝絵』(984年)などの仏教説話が生まれた。平安後期になると世俗説話も登場し、それらをまとめたものとして『今昔物語』(1129年)がある。また、民謡歌謡が神楽歌、東遊歌、催馬楽、風俗歌などに整備された。平安末期にはこれらに対し「今様」と呼ばれる新様式の歌謡が生まれ、『梁塵秘抄』(1169年)にまとめられた。


▲中世(鎌倉幕府江戸幕府成立)
 中世は武士が政権を担った時代だが、京都には天皇も貴族もおり中古の伝統が途絶えたわけではなかった。この時代も主に中古の伝統を受け継ぐ前期と、南北朝以後の武家・庶民階級の文化の台頭した後期にわけることができる。
 中世の前期は、王朝時代への懐古的姿勢が強く、中古の文学作品の模倣や擬古的創作が物語、和歌、日記など多くの分野で行われた。物語においては、擬古物語と呼ばれ、『とりかへばや物語』(1192年)、『海人の刈藻』(1192年)、『松浦宮物語』(1193年)、『住吉物語』(1221年)、『石清水物語』(1265年)などがある。中古に漢文体で書かれた軍記物語は中世になると和漢混淆文でかかれ、説話文学の影響をうけていきいきと描かれるようになった。『保元物語』(1223年)、『平治物語』(1246年)、無常観に寄りながら平家一門の盛衰を描いた『平家物語』(1240年)などがある。歴史物語は『今鏡』を継いで『水鏡』(1195年)や『増鏡』(1376年)が書かれた。また『無明草子』(1201年)は、日本初の物語評論として知られる。
 和歌の世界においては、平安期の美意識を「幽玄」として新たに捉えなおし、抒情性豊かな王朝的世界を歌にした。藤原俊成、定家の父子は新古今調の歌風を確立し、平安末期の歌風を総合した。『新古今和歌集』(1205年)はこうした和歌を集めた八番目の勅撰和歌集で、この後も勅撰和歌集が多く撰進されるが、21番目の『新続古今和歌集』(1439年)で勅撰和歌集は途絶えてしまう。またこの時代は大規模な歌合が行われたり、連歌が発達、整備され『菟玖波集』(1356年)にまとめられたりした。連歌は有心連歌と無心連歌に別れ、和歌的な前者が優勢となり『竹林抄』(1476年)にまとめられる。
 日記は女流日記文学の流れを引き継ぎ、かな書きの日記が多く書かれた。『弁内侍日記』(1246年-)、『中務内侍日記』(1280年-)、『とはずがたり』(1271年-)などの他、男性の日記として『源家長日記』、『宗長日記』などがある。また、京都と鎌倉の往来が盛んになったことで『十六夜日記』(1283年-)などの旅日記が生まれた。この時代には鴨長明『方上記』(1212年-)、兼好法師徒然草』(1330年-)など随筆に優れたものも多い。


 下層階級の台頭とともに、文学に新しい考え方が流入する。バサラとよばれる、既成の価値観にとらわれない無法者やその生き方が、『義経記』、『太平記』(1370年)などに取り入れられている。庶民の信仰や生活感情も、御伽草子などの物語や、小歌に繁栄されている。連歌もこのような下層階級の風俗と、王朝文化の伝統とが融合した中であらわれてきたものである。このほか、新仏教のおこりをうけ、民衆教化のための法語と言うジャンルがうまれた。道元の『正法眼蔵』(1231年-)や、親鸞の『歎異抄』(1300年)などがある。また説話集は隆盛を極め、『発心集』(1216年)、『閑居友』(1222年)などの仏教説話だけでなく、『宇治拾遺物語』(1213年)や『古今著聞集』(1254年)など様々な説話が生まれた。幕府は禅宗を保護したため、臨済宗の五山を中心に、京都・鎌倉の禅寺で漢詩・漢文が発達した。室町時代は、文学と芸能が融合した結果、滑稽な舞踊であった猿楽や農耕神事芸であった田楽は、それぞれ猿楽能、田楽能へと変化し、さらにそれが狂言と能にわかれた。そして、観阿弥世阿弥によって能は洗練された芸術になるに至った。


■歌とは何か

 水垣久氏の「やまとうた」というサイトの「和歌入門のための引用集・資料集」というページで「歌とは何か」として、本居宣長の『石上私淑語』と香川景樹『歌学提要』が引かれおり、興味深いので孫引きさせていただきます。(現代語訳はリンクを参照ください。)

 ただの詞はその意をつぶつぶといひ続けて、理りはこまかに聞ゆれども、なほいふにいはれぬ情のあはれは、歌ならではのべがたし。そのいふにいはれぬあはれの深きところの、歌にのべあらはさるるは何ゆゑぞといふに、詞に文をなすゆゑなり。その文によりて、限りなきあはれもあらはるるなり。さてその歌といふ物は、ただの詞のやうに事の意をくはしくつまびらかにいひのぶる物にはあらず、またその詞に深き義理のこもりたる物にもあらず。ただ心にあはれと思ふことをふといひ出でて、うち聞えたるまでのことなれども、その中に底ひもなく限りもなきあはれの含むことは、詞に文あるゆゑなり。(本居宣長の『石上私淑語』強調引用者)

凡人のこころ、物に感ずれば、かならず声あり。感じて動くときは、その声永し。その永きを歌とし、永くするを歌ふといふ。(香川景樹『歌学提要』)

歌に関しては、古今和歌集の序文で紀貫之も興味深いことを述べています。

やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世中にある人、こと、わざ、しげきものなれば、心におもふことを、見るもの、きくものにつけて、いひいだせるなり。

 要するに、心が動かされた時、それをうまく表現する手段として和歌があった(ある)のだと思います。「うまく」表現するためには、ただの文章とは異なる言葉の使い方があるはずで、そのことを少し考えながら、しかし根本は“きれい”とか“悲しい”とか“愛おしい”とかの「感動」にあるはずなので、あまり修辞・技巧にこだわらずにその「心の動き」が感じられれば良いのかな、なんて思っています。