リスタート

ウルリッヒ・ベック『世界リスク社会論』を読んで

前回内容を紹介した『世界リスク社会論』の考察、感想

■考察


構築主義への評価について

 ベックは「純粋に構築主義的な構築主義」へ批判を加える。ある意味平凡ではあるが重要な指摘である。構築主義者は、ある事象が構築されたものだと主張し、その過程を描いてみせる。しかし、そのこと自体にこだわると、その過程を含む「構築された事象」が、それ自体として固定化してしまうのである。ベックはこれは避けるべきだ、という。構築されていることは認めつつも、その構築された過程を含め、それらは常に再構築に開かれているべきであると主張するのだ。
 いわゆる「歴史修正主義者」は、広く常識として捉えられている歴史が構築されたものであるとして、それとは異なる歴史、現実、境界を提示し、それが正しい歴史だと主張する。あるいは、「子どもは純粋無垢だ」という子ども観は近代的に歴史的に構築されてきたものだと主張する構築主義者は、「子どもは昔から純粋無垢とみられてきた」と主張する見方を否定し、自らの主張をより正しいものとしている。両者を比較した時、では「正しい」の基準はなんであるのか、ということが問題になる。
 社会科学において、仮説と矛盾する資料が複数存在することは当然で、資料の組み合わせ如何によっては別の仮説も成り立ちうることがよくある。また、歴史的研究や質的研究の場合、統計学的に有意云々ということは困難であるため、どの組み合わせが正しいかどうかを客観的な基準で判定することは難しい。このような困難の中で、科学的な手続きの尊重度合い、という姿勢によって判断しようという提案もなされている。そのような基準でいわゆる「トンデモ」は(科学的正しさを求めるゲームからは)排除されるだろう。ただし、それだけで相反する仮説が消えてなくなるとは思えない。本質主義を否定した時、より「正しい」ものがなんであるかという基準を示すことがいかに困難な事であるのかを構築主義は自ら示している。
 一方で、ベックが指摘しているのは、むしろ構築主義者がある事象の構築性を主張し、その主張の正当性が確立すればするほど、構築されたとされる「事象」が、そうであるものとして固定化されてしまう危険性である。「社会問題Aは構築されたもの」という主張は、「社会問題Aは社会問題とされている」という事実を固定化する危険を持っており、またそれを問題と思っていない人々を排除しているという問題を抱えている。構築主義者の主張の正当性が認められればられるほど、このジレンマは深くなる。構築主義者にとっても望ましくない結果といえるだろう。 
 この問題に対して私は答えをもっているわけではない。道徳的に、「自らの言説も考察に加えなければならない」と言われるが、実際にどのように組み込まれているのかあまり知らない。一つのやり方としては、構築主義的に事象を捉え返す見方自体の考察というのがあり得るかもしれない。あるいは、なぜ「事象」が「常識」あるいは固定化されたと研究者が判断したのかということへの考察もありえる。いずれにしても、再構築に開かれたものにするための工夫は責務だろう。
 (こうした自省は社会学誕生の時から付きまとう問題で、永遠に逃れられなさそうである。)


▲因果関係、責任関係の無効化について
 ベックは、第一の近代における規則である、因果関係や責任関係が世界リスク社会においては無効になると論じている。因果関係や責任関係は、予測可能な結果や影響を前提にして決定が行われることが想定されている。結果に対して、責任を追うのは予測可能性が確保される時のみであると。ここでいう予測可能性というのは、100%なにが起こるという予測可能性ではなく、何%の確率で何がおき、なにがおこらないのか、という程度のものである。この程度のリスクならおえる、負えないという決断はこれを基に行われる。だからこそそのリスク判定と決断の責任が決定者に帰せられるのである。しかし、世界リスク社会においてはある行為の影響が予測不可能になる。さらに空間的に国境を超え、時間的に時代を超える可能性を持つ。つまり制御不可能なのである。このような予測も制御も不可能なものに対して、決定者に責任を負わせることはできない。これがベックの考えである。
 ベックはさらに、こうしたグローバルな危険を生み出すのは、目的合理的な官僚制であると指摘する。そのような官僚制によって淡々と決定され、そしてグローバルな危険が生み出されていく、と。この場合の責任者はあえて言うならば近代社会そのものであって、近代社会を放棄するという選択肢をとることのできない政治家ではないし、当然官僚でもない。
 翻って今回の原発事故について。まず、ある時点まで「絶対安全」と喧伝しその危険性の周知を行ってきた政府、電力会社、マスコミや、地震津波の想定・対策が非常に甘かった東電、あるいは原発の危険性を訴えてきた人々に耳を貸してこなかった私を含む人々に、政治的な意味で責任の一端はあるだろう。だが、上の議論でわかるように、因果関係的に責任をどこかの一機関や一時点(例えば原発を作ると決めた時点)に求めることは不可能である。原発事故が帰結することは、誤解を恐れずに言えば「予測不可能」なのであり、原理的に「想定外」なのである。原子力損害賠償法は無限責任主義をとっているが、これはそのことの現れである。被害は無限に想定しうるのだ。原発事故の責任を巡る議論は、この文脈で考えるなら、責任がないという事象の理解が困難であるために、どこかに責任をもとめて、事故の説明を可能にしようとする動きとみることができる。例えば政府が、責任を認め、賠償を考えうるかぎり広い範囲で行い、原発の安全性を一番高く望まれる形で設定したとしても、原発の「何が起き、なにがおこらないか」についての予測不可能性は変わらないのである。近代社会がより大量の、より効率的なエネルギーを求めた結果の一つが原子力発電であるといえるかもしれない。
 さて、このような予測不可能、制御不可能な危険に対して、ベックのいうような市民の連合がうまれるだろうか。おそらく、世界でも日本でも今後反原発運動が、さまざまなレベルで行われることは間違いないだろう。後にも述べるようにネットが市民連合を形成するのに役立っているようにも思われる。
 ビアスの『悪魔の辞典』には「責任という重荷は占星術の時代には星に肩代わりさせることができた」とある。「責任という重荷」は現在、人にすら「肩代わり」させることが不可能になってしまったのかもしれない。


▲大衆論
 1995年シェルのブレント・スパー事件では、専門家・政府・行政が議論し、「科学的」な根拠に基づいて深海投棄を決断した。しかし、それに対して大規模な反対運動が起き、不買運動や火炎ビン投擲などに発展する事態となった。専門家は専門知識に基づいて事実判定はできるが、政治判断はそれとは別である。どれほど科学的な根拠に基づいていようとそれがどのように文化的に受容されるのかはわからない。
 例えばリスク認知において、心理学では専門家と一般の人々の認知の仕方を以下のように説明する。専門家は「ある事象の生じる確率×被害の大きさ」でリスクを判断するが、専門知識をもたない私達は、リスクを過大・過小評価してしまう。例えば、記憶に残っているリスクはリスク認知が高くなるし、似たリスクを知っている場合にはそれに合わせたリスク認知をする。私達は専門家とは異なる1.恐ろしさ、2.未知性 というリスクの判断基準を持っている。前者に関しては制御可能性、被害の時空間的広がりの認識、後者に関して観察可能性、新奇性によってリスク認知は左右する。専門家によって「正しい」リスクを伝えられたら、一般の人々が納得するというものではない。実際、原発事故における放射性物質の影響の説明で、「喫煙による発がんリスク」や「自動車事故」など放射性物質外部被曝より科学的にリスクの高い事象と比べてパニックを抑え込もうとしたが、あまり効果はなかったようである(その説明自体が「科学的」にも問題があるということは指摘されているが)。
 さて、エジプトなど中東の民主化運動でツイッターやFBが大きな役割を果たしたと言われている。前回紹介した講演でベックが想定していたのはテレビだが、新しいサブ政治の手段としてインターネットが一つの選択肢として意識されだしている。サブ政治への参加やアジェンダ設定・把握の門戸は広がったといえる。(これらが中東民主化で実際にどれだけ機能していたのかについては研究が待たれるが。)
 このようにサブ政治の方法が多様化あるいはサブ政治への参加がより容易になると、「大衆の専制」がはじまり、それによって政治が混乱することはないのだろうか。この問題についてベックはこの本の中では明示的に述べていない。非常に楽観的に環境という視点で世界共同体のようなものが浮かび上がる見方を示している。しかし、「大衆は間違う」という視点は多くの留保をつけながらもやはり必要であると今の時点では思っている。この問題については考えが進んでいないので宿題としたい。