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Descartes, René,1637,"Discours de la méthode"(『方法序説』)

Descartes, René,1637,"Discours de la méthode"
 デカルト方法序説』=山田弘明訳(筑摩書房、2010年)


 有名な『方法序説』は、『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』という長い書の一部。一般向けに(当時の“一般”は私のような凡人を想定していなかっただろうが)フランス語で書かれたもので、思考の変遷も交えながら平易な言葉で書かれている。私は『省察』も『原理』も『情念論』も読んだことないし、『序説』も全部は読んだことないけれど、そういう人は多いのではないかと、期待半分に思っている。
 一方、デカルトの名前は知っているけれど読んだことないという人もいると思う。しかしそんなにおびえるほど難しくはない、ということを、『序説』の中の第四部を通して伝えたいと思う(哲学的に厳密な議論をするために、というのではなく消費する程度には読める、という意味で)。
 第四部は有名な「我思うゆえに我あり」がでてくる箇所だが*1、高校の先生の説明や簡単な哲学史で一瞬触れられる際の説明と比べて難しいなどということはなく、むしろそういった説明は、ここに書いてあることしか説明されていないという印象をうける。というわけで、読んだ方が早い。文庫で12ページしかないので。


■第四部(45-56pp)

 最初にここでデカルトが議論していることをその順番通りに図式的に示しておけば以下のようになる。

・徹底的に疑う 
  →疑いきれない実体としての「わたし」の発見 
  →このことは「明晰・判明」にわかった
  →明晰・判明に捉えられることはすべて真
  →「わたし」より完全な存在=神がいることで、上の命題は成り立つ
   =神の存在証明


 では本文にうつろう


●「我思う故に我あり」
 第四部は真理を探究するにあたって、デカルトは確実な基礎固めのために疑えることはすべて疑うという態度をとることを冒頭で宣言する。

ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後でわたしの信念のなかにまったく疑いえないなにかが残るかどうかを見きわめねばならない、と考えた。(45)

 ただし彼自身は懐疑論者なのではなくて、むしろ懐疑論者の問いを真摯に受け止めつつ、それを批判・乗り越えるために「方法的懐疑」を行っているのである。
 こうして実際に疑っていくわけだが、私はこれを読むまでは徹底した懐疑の様子がダラダラと書かれていることを予想していたのに、実際はたった数行で懐疑は終わってしまう(少なくとも『序説』では)。例えば感覚さえも疑えうる、という箇所はたった一行だけで、すぐ幾何学に移る。

感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。次に、幾何学の…(45)

 幾何学に関しては、推論を間違ってしまうこともあるので、とりあえず偽としておくとする(『省察』では悪霊が誤った計算を人間に本当だと思わせているかもしれない、という仮説をあげている)。思考に関しては、1.起きている時に行う思考は寝ている時にも現れる。2.寝ている時に行われる思考はすべて偽 3.従って起きている時の思考も偽の可能性がある。という風にして疑ってしまう。感覚、幾何学、思考をこの程度でさらっと懐疑したところで、結論がでます。

 …次のことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する(…)」というこの心理は、懐疑論者たちのどんな途方もない想定といえども揺るがしえないほど堅固で確実なのを認め、この真理を、求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。(46)


 この後デカルトは、「わたし」の存在が疑いえないことを、1.自分が存在しないという仮定が不可能な事。2.わたしが考えることをやめると、わたしが存在するといえなくなってしまう。ということから導き、「わたし」を一つの「実体」として考える。その本質は「考える」ことだけであり、「いかなる物質的なものにも依存しない」(=それ自身で存在できる)。

…このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体からまったく区別され、しかも身体より認識しやすく、たとえ身体が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない…(47)

*検討
 たしかに、聞き間違い、見間違いに限らず目の錯覚やモスキート音の存在など(あるいは星は私達の目にうつるように小さくはない)、感覚ほど信頼できないものはない、と(とりあえず)いうことはできるかもしれない。幾何学に関しては、悪霊の例がよくわかる。思考に関してはどうか。今考えていることが夢かもしれないとしたら、全くもって「確実」な知とはいえないかもしれない。なるほど。確実なものなどなさそうだ。
 では「そう考えているこのわたし」はどうだろう。疑いえないのか。たしかに、疑うというかたちで存在している「わたし」、悪霊にだまされている「わたし」の存在は確固たるものと思えるかもしれない。しかし、感覚や思考を疑っている<なにか>は「わたし」なのだろうか。「わたし」と「思う」は結びつくのか。「思う」と「我あり」は結びつくのか。疑う「わたし」と、それを認識する「わたし」は同じなのか。「思」っていない時、「わたし」は存在しえないのか。「わたし」が「思う」ためには、他者が不可欠なのではないか。身体と区別した「わたし」などありうるのか。疑う(疑えない)という態度と「ある」という事実を結びつけて良いのか。
 デカルトへは様々な視点から様々な批判が寄せられているが、真理探究の基礎として「わたし」を置こうとしたデカルトへの批判として最も有効なのは、デカルトの考察・検討はデカルト以外にも適用できるのか、という批判であると思う。「自分は存在しないとは仮想できない」ということが、デカルト以外にも当てはまるのか。これが当てはまらなければ、「堅固で確実」な真理とは言えない。デカルト以降も独我論的思考は現れるが、そのどれもが「他者」を問題にせざるを得なかったのは、このことに依っている。
 ところで、以下の文を見る時、デカルトは現在一般にイメージされているように堅固な自我観をもっているわけではないことがうかがえる。

 ただわたしが考えることをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしが存在したと信じるいかなる理由も無くなる。

 これは、「わたし」が「実体」でありその本質が「考えること」であるということを説明するための文だが、先にも述べたように逆に考えることをやめた時「わたし」の存在は危うくなることも示している。デカルトは、たしかに「考えるわたし」を物質と切り離しても存在する本質的なものと考えていたが、同時に(身体を根拠としないために)「考える」ことをやめた瞬間にその存在の根拠が消えてしまうような曖昧な存在であったともいえる。



●真理の基準
 とにかく以上のように、「わたし」が実体として存在することを確信したデカルトは、次にこの確実性がどこからくるのかを考え、明晰・判明という基準を打ち立てる。

 「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの命題において、わたしが真理を語っていると保証するものは、考えるためには存在しなければならないことを、わたしがきわめて明晰にわかっているという以外にはまったく何もないことを認めたので、次のように判断した。わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である、これを一般的な規則としてよい…(47)

 これが有名な「明晰・判明」の基準である。明晰とは、デカルトが「われわれは実に明晰に太陽を見るけれど、だからといって太陽が見ているとおりの大きさであると判断してはならない」(56)というように「明らかであること」、デカルトの言葉を借りれば「精神に現前し明示されていること」である。一方判明とは、デカルトが「われわれは、判明にライオンの顔をヤギの胴体に接ぎ合わせたものを想像できるが、だからといってこの世にキマイラという怪物がいると結論してはならない」というように、「はっきりしていること」、デカルトの言葉では「他のものから紛れもなく区別されていること」である。例えば、明晰だが判明ではない例として訳者は苦痛の知覚をあげている。つまり、痛いことは「明らか」だが、どこが痛いかは「はっきり」していないのだ。デカルトもただし書きで、判明と捉えるものが何かを見きわめるのは困難だと言っている。
 

●神の存在証明
 こうして拠り所とすべき「わたし」と、明晰・判明という基準を手にし、具体的な探究へデカルトは向かう。「わたし」の持っている考え・観念はどこからきたのか。それらの観念を、「わたしの存在よりも不完全な存在に関しての観念」と「わたしの存在よりも完全な存在に関しての観念」にわける。「わたし」とは先にみたように、実体つまり「それ自身によって存在するもの」であるのに対し、天空、大地、光、熱などは他に依存している点で「わたしの存在よりも不完全な存在」である。「他に依存している」とはどういうことか。「わたし」か「無」に依存しているのである。天空や大地などの観念はそれ自体としてではなく、「わたし」によって認識されて存在しうる。その意味で実体ではない。あるいは、偽である観念は「無」から来る。そして、「わたし」は完全ではないので、そういった「無」からきた偽なる観念も取り入れてしまうのだ。
 では、「自分よりも完全である何かを考えることをわたしはいったいどこから学んだのか」。自分より完全な存在の観念は、完全性がより低いものから得ることは不可能なので、「わたし」や「無」よりも完全なものから得られたはずである。わたしが考えうるあらゆる完全性を備えているのはほかでもない神であるので、「自分よりも完全である何か」に関する観念は神からきているのだ。そしてこの意味で、神は存在している。この時デカルトは、アクィナスとは異なり、事前(アプリオリ)に神とは完全な存在であるということを想定している点に注意を促しておこう。

わたしの存在よりも完全な存在の観念については…それを無から得るのは明らかに不可能だし、また、わたし自身から得ることもできなかった。…そうして残るところは、その観念が、わたしよりも真に完全なある本性によってわたしのなかに置かれた、ということだった。その本性はしかも、わたしが考えうるあらゆる完全性をそれ自体のうちに具えている、つまり一言でいえば神である本性だ。(49)

 われわれがきわめて明晰かつ判明に理解することはすべて真であるということ自体、次の理由によって初めて確実となる…。神があり、存在すること、神が完全な存在者であること、われわれのうちにあるすべては神に由来すること。その結果として、われわれの観念や概念は明晰かつ判明であるすべてにおいて、実在であり、神に由来するものであり、その点において、真でしかありえないことになる。(54)


*検討
 真理の基準について、デカルトが示したのは以下のことだと思う。
1.懐疑の結果真理を得た
2.明晰判明であること以外真理を真理たらしめているものはない
3.明晰判明であればすべて真実
 これに関して1.があやしいことについては既に述べた。2.についても、明晰判明だった、というデカルトの体験を語られるのみでなんとも判然としない。それと関連して3.も明晰判明がなにかよくわからない、という点はともかくとしても、自分が発見したものに「真理」の定義を与え「真理」とした、と思えてしまう。だが、考えてみればこの明晰判明というのは、現在にも通じるやっかいな問題だ。
 例えば、「いぬi nu」という音は、あの四足歩行の小動物となんの関係もない。言語は指し示す記号と指し示される対象にわけることができ、そのつながりは恣意的だ。と言われた時、なぜ私達は納得することができるのだろうか。なぜいや犬には本来的にinuという音が備わっているのだ、とかたくなに主張する気をなくしてしまうのだろう。「それは、英語ではinuではなくdogという音で呼んでいるという事実を知っているから」と言う人がいるかもしれないが、それも同じで、ではなぜそのような事実を指摘されると、自分の考えを修正し、ソシュールの考えが正しいと思うことができるのだろうか。私達は、なにを基準に「ただしい」と思っているのだろうか。
 デカルトの明晰・判明というのはこのことを指しているのだと思う。たしかに、明晰・判明という言葉以外で言い表せないようななにかが、そこにはある気がしてならない。論理学が発展していくのは、このあたりのことをはっきりさせたかったからだろう。
 神に関して、デカルトはクリスチャンだったが、こんなにも神とはニュートラルなものなのか、と改めて驚かされた。完全で真なるものを神と呼んでいるだけ、という印象を強くうける。ほとんど宗教的なにおいを感じない。一方で、

神が、真理の基礎なしにそれら(観念や概念)をわれわれのうちに配備したということはありえない(56)

のような記述を見る時、そこに信仰を感じる。だがそれは、特定の神への信仰というよりは、むしろ「完全」「完全性」「真」といったものが存在することへの信仰、信頼である。当然これらは一神教の教えに由来するので、宗教的信仰と論理的思考の間にはそれほどの違いはないのかもしれない。

*1:コギド・エルゴ・スムというラテン語での表現は『省察』に出てくる。『序説』ではフランス語。