新聞に現れる「若者」に関する言説(1876〜2011)

メモです。
 *別のブログで以前書いたメモも入っています。
 *「*」は判読不能。強調すべて引用者。


■1876年(04月20日)の若者批判(読売新聞:朝刊 3ページ)

追々世の中に便利なものが出来まして、其内人力車*一寸急用の時などに*至極宜しいがそこで其車夫でござりま*
 當時*天晴な若いものが少し不都合に成って差向き困ると直に車と借こんで稼ぐもの*多く有るやうに思ひま*が(併し以前のやうに日向ぼッこと*て居る乞貧坊主や辻番、折助などの無なッたの*結構)
 成程マアそうして稼げバ日に十五銭や二十銭*取れま*やう*ら凌ぎ*付ま*が私の思ふに*、汗水流して牛馬の代り*して幾ら達者に曳ても外國*ら雇ひに来るでもなしまた稼ぎ溜て大商人に成ったといふことも聞か*
 それより一ばん憤撥して職人*商人に成って外國とよい商ひをする*宜い品と拵らへて金儲け**たら御國の為になりま*誉にも成りま*やう皆さん此後*成*け車曳*にならないやうに成さ*といふの* 
 琴平町 西村誠造」(段落分け・句読点の追加は引用者。原文は総ルビ。*は判読不能。)

 要するに、「最近の若者は金にこまるとすぐ車引きなんてやって得たはした金で満足しちゃうけど、ちゃんと職人とか商人やって金儲けをしたら国の為にもなって良いのに!」というもの。


■1877年(1月9日)読売新聞(朝刊:3ページ)

 東京ハ開化も外より進み学者先生も多く 主上の御膝元*ゑ人の行ひもよく萬事ぬけ目の無い所と聞いて居りましたが我父母を粗末にする事**て老人を粗末に*る土地で道の悪い時などに知ない老人に途中で有ッても先老人*道のい*方を通して遣り*いが東京でハ若い者が通るあひだに老人が立て待て居る程だから万事それにつれて老人を粗末にいたし父母親と娘とでハ何れも娘ハ形も立派で朝夕の働き*娘が据ッて針仕事でもして居て母親が水を汲んだり台所の用をする風*有り**が
 私の土地**でハ一寸した事が娘を外へ嫁にやると何でも娘の夫婦が里開きに実家へ来るのハ*歴の 月一日と極て(きめて)おり娘をやッた先の舅姑を初て呼ぶのハ秋の取入が済んで穀物の十分にある時節と極て(きめて)有りますが此(この)わけハ老人ハ先が短いから何もかも十分にある時に呼んで十分に御馳走をいたし若いものハ忙しく成る矢先で穀物も少ない時分に呼び御馳走も十分にハ致さないで帰*習ひして若夫婦ハ人の振舞を當(あて)にせずに自分で*もいり稼で食へ老人ハおもいり御馳走して取持てと云ますが此一*でも辺鄙ながら老人を大切にする心が知れますだろう
 それに引かへ(ひきかえ)東京あたりにハ親に下駄まで直させて平気な顔をして居る人が多いのにハ呆れ果た次第でハ有りません**我土地の田へ水をひくものハ信州飯田の  
  田中*左衛門

「東京では老人や親を全くぞんざいに扱っている。地元ではそんなことはありえない」という内容。若者批判というより、都会人批判かな。


■1879年(10月19日)の若者批判(朝日新聞:朝刊 大阪 4ページ)

 夕陽傾く頃、軒端の梧桐も一葉二葉散り、前栽の叢裡(くさむら)に蟲の音稍秋を*ぶる面白さに端居の柱にもたれ庭の面を眺る折しも、飛石の際に動く物有りいか成る物(あるもの)やらんと、眼を定めて見れバ(ママ)、一疋(ひき)の蜻蛉(やんま)の死したるに、*万の蟻群集て(むらがりて)、己が巣へ引入るなりけり。
 其*(さま)恰も(あたかも)西京(さいぎょう)ならバ、*園(ざたん?)の***(ほこたうち)*らバ夏祭りの太鼓地車だんじり)を引くに似たり。アア蟻の如き小虫ですら斯く*夜(おうや)のわかち*く勉強して己が喰物をへ今より冬籠りの用意せり。まして萬物の長たる人間(加之(しかも)青年書生)にして遊惰にくらして昨日ハ、洗湯の二階今日ハ楊弓店(ようきうみせ?)の娘の的をねらひ可惜光陰(あたらくわういん?)を消費す。
 抑々(そもそも)何の意志(こころ)*や チト此蟻を見習ひ勉強して腹中を肥して冬籠りの用意でもなされていいか**と言者(いうもの)も矢張(やはり)ぬらくらの青二
 鈴廼家棹竹
(段落・句読点を勝手に付けたした。原文は総ルビ。*は判読不能。(ママ)は原文のまま、という意味。)

 アリを見て、「アリですらこんなに働いているのに、人間しかも若者書生ときたら…」というもの。アリに着想を得ていて、しかもアリと人類を比べているスケールの大きさには驚きますが、今も例えば他国の子どもと比べて、「日本の若者、しかも勉強が本文の学生ときたら…」みたいな語りはありますよね。


■1957年(12月11日)若者擁護(朝日新聞:朝刊 9ページ)

 天城山心中 死を急ぐ若者たち

  学習院大学生、******さん(一九)と大久保**君(二〇)の二人は、肉親、友人、地元の捜索も空しく、十日朝、初冬の天城の山に心中死体となって発見された。二人の場合は、特殊なその生いたち、環境、性格などに死の原因が求められるとする人が多い。それにしてもちかごろ、若い学生の心中、自殺事件が目立って多い。また、この事件が新しい流行をつくるおそれも考えられる。戦後、男女共学の制度が布かれ、批判はありながらも若い学生、生徒たちの異性を理解する能力は一歩一歩と高まり、交際のモラルも少しずつ作られつつあるといわれているのに、この傾向はどうしたことだろうか――大久保君が寮に残した日誌、最近の主な学生心中事件、文部省がみた男女共学の実態を添えてここに若い人たちの立場を考えてみよう


 古い考えとの断層 15−24歳は死因のトップ

 警察庁の調べでは、青少年層の家で、自殺などの動機はさまざまだが、古い世代のモラルに反発、家の伝統に対決するなどといった家庭をめぐる親子の不和からの例が少なくない。家出の原因では家庭の不和が四三%と一番多く、この中で中流家庭上の子女に家出や自殺の増加傾向がみられている。これは、このような家庭で、親と子の断層が深まっているのではないかといっている。そして、若い世代にとっては経済面より精神的な悩みで家出する傾向が強く、こんなことで自殺までしたのかといった古い世代が考えられないような原因で死を選んでいく事例も少なくないという。最近の主な学生の心中事件とその推測された原因(警察の調べ)は次のようである。

 ――以下部分的に要約――
 ・日大歯科一年生(20):片恋による無理心中
 ・日本農大四年生(21):若すぎると結婚に反対され心中
 ・甲府工高四年生(17):交際のことを親に注意され心中
 ・会社員(19)と女高生(18):男の病弱に女高生が同情して心中
 ――――要約終了――――

 …国立公衆衛生院の調べでは、昭和三十年一カ年の青少年の自殺者は、十五歳から二十四歳まで男五千百四十三人、女三千八十八人、合計八千二百三十一人。男だけをとると、同年齢の肺結核死亡者の二.二倍で、死亡原因のトップを占めているという。


 “モラル”過渡期の悲劇
 一橋助教授*博氏(社会心理研究所長)の話

 こんどの心中をきっかけに、もしも大人たちが、若い男女のモラルを心配したり、男女共学制を非難したりすることになれば、とんでもない間違いだ。かりに肉体的に差し迫ったような事情があったとしても……。私がとくに心をひかれたのは、**さんが、大久保君の下宿にあてたという遺書風の手紙だ。その中で**さんは、大久保君の考えを変えさせようと議論をくり返したことを述べ、その結論として「大久保さんの考えに一致したのであって、決して引きずられたのではない」といっている。
 これまでの心中の相手はほとんど“同情”という受身の立場で死んでいったことを考えると、戦後の青年が自分で新しいモラルを発見し、育てつつあることを感じる。それは、話合いで相手を説得しようとしたり、自分の行動には自分が責任を持つというモラルだ。残念なのは、その話合いが、二人だけの間で結論を出したことだ。この際、両方の親や世間に、子供の話合いに応じてやる環境があれば、悲劇は起こらなかったのではないか。新しいモラルを生みだす過渡期の悲劇とみたい。
 …

 たしかに、戦前からこの時期にかけて若者の自殺のニュースは頻繁にみかける気がします(統計上どうかは知らない)。さすがに、自殺した人に向かって理由が理解できないからと言って「甘ったれ」と新聞では書かないか。
 ちなみに片思いで無理心中って今の日本では自殺とは言えないと思います。笑
 しかし、割と冷静な記事だと思います。一橋大助教授が、自殺にいたるやりとりに「新しいモラル」を見出しているのはユニークです。ちょっと無理矢理感があるけど。


■1960年(8月13日)朝日新聞(朝刊 6ページ)
 おもしろすぎるので、全文。

15年目の若者たち
 終戦から十五年――さまざまな変化のなかで、いちばんめだつのは日本の若者たちである。かれらは戦後どう育ち、いまなにを考えているのだろう。ここに取り上げるのは、不統一のまま胎動する新しい世代のいくつかの姿である。
 『若いエネルギー、そいつを描きたいんですよ』―と28歳の映画監督大島渚はいう。「その若いエネルギーはむだに消費されているように思えるかもしれない。しかし、どう乱費されようと、エネルギーそのものは描く価値がある」。

“がめつさ”むき出しも
新世代の性格への芽生え
よしあしは長い目でみて


――エネルギー――
 たしかに近頃の映画の中では若い男女が目茶苦茶にあばれまわっている。若さとエネルギー、それはいつの世にもつきものだが、戦後の世代ではそのエネルギーがむきだしになり、全身的に暴発され、無方向に投げ出されている。若者たちを描いた映画といえば、強烈なジャズ、ジーンズパンツ、オートバイ、なぐり合い……おきまりの道具だてだ。
 ところで、大島監督はこんなことをいう。
 「社会対個人、なんて考え方は通用しませんよ。いまの若者たちは、自分を社会に対立させたり、社会を自分に対立させたりなぞしない。社会がそのまま個人であり、自分がそのまま社会である――という考え方なのです
 社会はこれまで自分の外にあって、権威とか、権力として個人にのしかかっていた。個人はそれと深刻に対決した。藤村操以来の日本の青年たちの思想的系譜も、つきつめれば右の方式に要約される。
 けれども今の若者たちはそんな対立感がない。だから思いのままにエネルギーを発散する。同監督の映画『青春残酷物語』や『太陽の墓場』は、要するにその性格を拡大再生産してみせたものだというのである。そして「旧世代にはむなしく見えるかも知れないこの無方向のエネルギーが、いつかは本当の方向をもった力になる」というのだ。戦後世代の特質は、まず第一にこのエネルギーへの信仰と確信にある。そして、それが外に向かった時、対象にふれて権威の否定という形をとって現れる。


――権威否定――
 『われわれは権威主義というやつを認めない』――29歳の共産主義者同盟書記長島成郎氏はいう。
 「マルクスが先にあったり、モスクワが先にあって、それに自分の考える理屈を合わせるなんて、まったくナンセンスだね。自分に自信をもたず、ひたすら権威に盲従する。なんです、古い連中のあのざまは
 新しい世代の波は、このようにして共産主義までも巻き込んでしまった。全学連主流派を牛耳るかれらは共産主義者だが、代々木はもとより、モスクワの権威なぞ、てんで認めない。ひとむかし前の共産主義者ならふるえあがった「トロツキストー」という刻印さえ、かれらにはさっぱり通用しないのである。一半は、不知もあるが、「代々木がぼくたちのことをトロツキストというなら、さだめしトロツキーなる人物はえらい男にちがいない」というわけで、大学付近の本屋でトロツキーの著書が売れだしたというから皮肉だ。事実、トロツキズムを解説したある本などはベストセラーを誇っている。島書記長はいう。
 「だいたいスターリン主義は、どこをつついたって人間をとらえるような思想をもっていない。そんなスターリン主義に今もって振りまわされている古手連中は……まったくわからないな。なにをビクビクしてるんだ。ぼくたちはスターリニズムを徹底的に打倒する。そして、レーニンだろうとトロツキーだろうと、マルクスだろうと、まちがっている点はどしどし批判する。ハダに合わぬ思想を教条化するなんてことは絶対にできやしない」。


――感覚――
 「ハダに合わぬ」――たしかにその通りだ。新しい世代はハダで感じとる。活字でものを考える世代のつぎに、映像でとらえる世代が登場し、いまやハダで感じとる世代が出てきたのである。
 いまの若者たちはおそろしく感覚的、実感的である。国語学者の話によると、石原慎太郎大江健三郎などの小説を引き合いに出すまでもなく、かれらの会話自身が感覚的になっているとのことだ。たとえば「いやーな感じ」「いいタッチ」「やわらかーく」「好き好き好き」……。
 言葉自体にはなんの意味もない。ただ感覚的で、品が悪く、ガサツにひびくけれども、いつの間にか古い世代までもとらえているところが、問題なのである。

 これは流行歌にもあらわれている。ひとむかし前の流行歌には「涙」「雨」といったのがきまり文句だったが、近ごろでは「好きなんだ」「悲しいんだ」とズバリそのものをぶっつけに放り出す。
 ジャズのファンの層がこれまでになく厚くなって、ジャズをききながらでないと仕事ができないという青年たちがふえたというのも新しい日本人のタイプだ、とテレビプロデューサーは真顔でいっている。げんにジャズ番組は大学生から小学生までに受けており、最近ではとくに小、中学生の投書が多いという。
 「実際、今の子供は感覚が鋭いですからね、童謡なんかじゃ満足しないのです」。
 だが、この感覚、この身体で感じ、うけとめ、たしかめる実感こそが新世代の基礎的な性格といえるかも知れない。二宮金次郎的な勤労精神はてんで身につけず、もっぱらたのしみだけを追求しようとすることも、私生活を重視し、合理的な生活技術を身につけようとしていることも、同時に視野が身近な範囲に限られ、権威は否定しながら現実はあっさり認めてしまうことも、みなそこから来る。
 一言でいうなら、がめつさ。
それは、日本の将来にとってよろこぶべきことか、悲しむべきか、もう少し時間をかけてみないとわからない。


――合理性――
 「希望とは、自分の目でみて、実現可能な範囲をよく考えたところに生まれてくるのだと思います」「今の若者はこせこせしている、もっと大きな抱負をもつべきだ、といわれる。たしかにその傾向があるが、われわれの希望が小さくなったのは、社会の矛盾をあるがままにみつめようとするわれわれ自身の目によって、抱負がいかにむなしいかを教えられたからである」。
 これは青年むきの人生雑誌にのった若者たちの手記。前のは19歳のパチンコ屋女店員、あとのは19歳の青年である。かれらは自分の目だけを信じている。希望や抱負などというものはその目からすれば不合理なのだ。それは着実にはちがいないが、視野をひどく貧窮にしていることも争えない。
 芸術座で上演された「がめつい奴」にこんな場面があった。両親とケンカをしてきた青年が恋人にあってもプリプリしている。「なにをそんなに怒っているの」「オヤジとケンカしてきたんだ」「それがあたしとなんの関係があるの」。
 三十歳以上の顧客はドッと笑う。だが若い顧客は、なにがおかしいといったふうにきょとんとしていた。かれらにとって、それは“平生の心得”にすぎない。
 新しい世代はいつも自分が中心だ。自分を中心にして合理的に考える。だから自分を超えたところを見ようともしない。かれらの合理性は、多くの学者たちがいっせいに指摘するように「閉じられた合理性」「身近な範囲での合理性」すなわち「がめつい」のである。
 「白馬童子」というテレビドラマについてテレビ局が調査した。白馬童子のどこが好きか、なぜ正義の士か。多くの子供たちの答えは「白馬童子は約束を守るから」ということであった。童子がお家再興につくしているなどというのは視野の外。これなども新世代の合理主義の一端なのだろう。


――矛盾――
 ハダで人権感覚をうけとめ、身近な範囲で民主主義を実行し、自分の好みの生活実現を理想とし、権威を無視し、契約的な合理主義を尊重し、フェア・プレーを自然に身につけ、そしてエネルギーを信頼する――これが、きわめて大ざっぱな戦後世代の性格である。そのなかにはムジュンし合った要素がたくさんあるだろう。たしかにそうだが、実はそのムジュンこそ、十五年目の若者たちの最大の特徴といえまいか。かれらは一方で野放図なエネルギーを放出しながら他方でがめつい生活技術を身につけている。一方で権威を否定しながら他方であっさり現実を肯定している。一方で反抗しながら他方で妥協する。
 だが十五年という月日は、このように新しく芽生え、躍動しつつある若者の性格を、ひとつの統一あるものにまとめあげるにはけっして長い時間とはいえない。
 だから――この新しい世代の性格を仕上げるのは、もうひとつつぎの世代、おそらく十六年目の、あるいは二十年目の若者たちではないだろうか。

 
 監督の「いまの若者たちは、…社会がそのまま個人であり、自分がそのまま社会である」っていいですねー。セカイ系みたいで。エネルギー、権威否定、感覚、合理性、矛盾…。近年は「最近の若者はエネルギーはない」と言われるので、内容的には今と変わっていると思います。合理主義も時代を感じる。ただ「感覚」のとこで言われた若者は「なんでもハダ感覚」ってのは、今でも言われそうな内容ですね。
 若者を奇異な目でみつつ、「よしあしは長い目でみて」ともいって理解できない「若者」を理解しようとする姿勢をみせる、そんな記事でしょうか。でも、「がめつい」って100%「あし」の方の評価でしょ。「あの人がめついよね! いい意味で!」ってな使い方を想定でもしているのか。しかも、「もうひとつつぎの世代」に期待しちゃってるし。まぁいいけど。
 1960年に20才だった若者は、今や70歳。彼/彼女らは「日本の将来にとって」良い役割を果たしてくれたのでしょうか、悪い役割を果たしたのでしょうか。…。
 1960年の共産主義者同盟書記長が、「マルクス ケッ!」なのは意外だった。


■1962年(5月22日)読売新聞(朝刊7ページ)
(連載)

新BG読本(33)
「課長さん、しからないでネ」

「十年選手はびっくり
なれなれしい新人の言行」 

 「あなたの課のA子さんって、たいへんな人ねぇ」
 珍しく食堂で顔を合わせた同期の十年選手、商事課のV子さんにいわれて、J子さんはどきりとしました。
 ―彼女、また何かしでかしたかナーまっ赤なセーターに黒のジャンパースカート、黒のストッキングといういでたちに、大きくふくらませていたひたいに垂らした髪の下から青々と光らせたアイシャドーの目が光っている―ことし庶務課へはいってきたばかりの日、まずみんなのどぎもを抜いたA子さんの顔を思い浮かべながらJ子さんはV子さんの顔を見ました。
 (中略)
 V子さんがトイレに立って廊下に出ると、偶然V子さんの前を歩いている課長にA さんが追いついたところだったのです。なんの気もなしに歩いていくV子さんの前で、A子さんが「ねえ、課長さん」とポンとその背中をたたいたのには、V子さんのちょっと大げさなことによれば「息のとまるほど」驚いてしまいました。そればかりか、立ち止った課長によりそうようにしていったA子さんのことばに、V子さんはもう一度目がくらむほどびっくりしてしまたのです。
 「ねえ、あの書類(引用者注:商事課から送った書類が届かないと照会の手紙があった。A子はたしかに送ったと言っていた」)、ほんとは忘れちゃったのよ。でも、いまからすぐ送るから、みんなの前でしからないでね」

 それだけいって、さっと駆けていってしまった彼女を見送って、当の課長もぼう然と立ったまま、そこへ来合わせたV子さんと顔を見合わせてしまったひと幕があったのです。
 (中略)
 始業十五分前ぐらいにきた先輩BGたちが、机をふいているところへ、始業ベルと同時にすべり込んでくるA子さんは「あ、セーフ。助かったわア」とはでな声をあげるだけで「すみません」のひとこともないのです。先輩だろうと主任だろうと、彼女にとってはまるで友人同様。…そして忙しい仕事に追われている先輩BGが「ちょっとあの書類とって」とでも頼もうものなら、返事モロクにしないといぐあいなのです。J子さんがカレーライスをおさじですくいながら、胸のなかで彼女のこんな毎日の様子を思い浮かべていると、それにはおかまいなしにV子さんが言いだしました。
 「若い人たちって、とてもわたしたちにはマネのできないくらい自由で、そりゃうらやましいと思うわ。でもねえ、やっぱり限度ってものがあるわよ」
 「そうね。そりゃみんなが全く対等で、肩を組みながら仕事をするなんて、そんなふんいきがあれば理想的だけど、でもそれにだって、先輩と後輩、早くから仕事に通じているものと、あとからぽんとはいってきた人との間にはおのずからの礼儀ってものがあるわねえ」

 (中略)
 「…会社のなかの公の場所ではね。やっぱり困るわよ。外部の人にでもみられてごらんなさい。一度に信用を失うわよ」
 (略)

 新入社員批判なるものも、けっこう早くからある。この文でおもしろいのは、一人の若者の話をしていたのが、いつのまにか若者全体の話に変わっていくこと。筆者は最初から後者ありきで書いているのかもしれないが、実際の会話でもこういうことがよくある。それにしてもA子さんは、どんな時代にいてもぶっとびガールと思われると思うのだが…。


■1972年(6月27日)読売新聞 (朝刊6ページ)

 意識は穏当だが 甘え目立つ 若年層や中間管理層

 企業の若年層や中間管理職の意識は全体として比較的穏当だが、会社に対する甘えが目だって、“意欲型”は意外にすくなかった――これは経済同友会(…)が二十六日まとめた「若年層従業員と中間管理職意識に関する実態調査」の結果で、企業内における世代間のズレが浮き彫りされた。
 最近「新入社員をみたら異邦人と思え」といわれるほど管理層と若年層の断絶がひどくなっている。この調査は、その価値観の相違をはっきりさせ、若年層の管理指導に役立てようというのがねらい。同友会の消費流通問題委員会(…)が中心になって各業界の一流会社に十五社、約五千六百人を対象に調べた。
 それによると「若年層が会社に続けて勤務するかどうか」は“会社の発展性”と“上司の指導性”に大きく左右され、会社を発展させることに自ら意欲をもつなど主体性のある態度はほとんどみられなかった。また「会社が公害などで社会問題を起こし、批判された場合のとるべき態度」については、男子大学卒職員でさえ「会社の名誉ばん回のためにがんばらなくてはと思う」とした“積極的意欲型”は一〇・二%にすぎず「上層部がどう処置するか冷静に見守る」など“冷静型”が三二・七%も占めた。
 「大事な私用があるとき残業を引き受けるか」に対しては、現場従業員の場合「引き受ける」と答えたのがわずか一四.九%、「断る」が六五.〇%もあった。大卒職員も「引き受ける」が二八.六%、「断る」が四四.一%で、ともに公私をはっきり分離して、プライバシー領域を最大限に守ろうという傾向が現れている。

 新入社員をみたら異邦人だと思え!
 まだ会社文化なるものが強くあった時代、おそらくそういう時代だからこそ新入社員は異邦人に見えたのではないかと。彼等を教育し、社会化(会社化)して同族にしなければならない。現在はあまり新入社員の異質性については(マナー問題は別として)語られない気がする。気のせいかな。
 残業に関しては、2009年の記事と見比べていただきたい。


■1972(6月29日)読売新聞(朝刊 17ページ)

学会往来
若者と社会心理学――公開討論

“新人類”の発言も
 理解の仕方に問題 

 日本人論とともに最近活発なのは若者論だ。長髪世代ロック世代など若者文化との関連であれこれ論議がだされている。
 日本社会心理学会でも二十四日「情報化社会と若年層―世代間断絶の社会心理学」と題して公開研究討論会を開いていた。
 報告者は社会心理学から*戸弘(…)、社会学から藤竹暁(…)、心理学から早坂*次郎(…)、企業経営者から高橋*(…)の各氏。議論の対象となったのは、若者論の前提ともいえる事柄に関することが多かった。たとえば「世代の断絶が実際にあるのか、ないのか」「現代の若者は意識や行動の上で旧世代と異なる“新人類”と考えられるか」「それとも年をとれば同じ日本人。青年期特有の問題とみていいのか」―従来から難解も繰り返されてきた問いかけが、ここでもむしかえされた。
 (中略)
 こうした意味で公開討論そのものにはあまり成果はなかったようだが、最後に藤竹暁氏(…)が投げかけた疑問は、今後の研究態度にかかわる問題として重要な指摘といえる。「若者を自分とは違うものとしてオトナが論ずるのは誤りではないか。若者を一般的に解説するのではなく彼らが社会に投げかけている問題をつかむことが大切。それをオトナがつかめるかどうか。若者論をオトナ自身の問題としてとらえるべきだろう」

 こういった啓蒙活動は昔からあったんだと確認。学問としては、「べき」論ではなく、なぜオトナは若者を「一般的に解説」してしまうのか、を研究すべきだろう。
 「新人類」って言葉は80年代中ごろから流行り出したけれど(1986年流行語大賞)、すでにこの時期に研究者も口に出していたのか。


■1983年(5月26日)朝日新聞(東京朝刊 20ページ)

ミーイズムが非行の元凶!? 社会での自立遅らす
環境整備が課題
都青少年問題協報告

暴力、非行。中学生を中心に、荒れる少年たちへの対応は困難をきわめているが、都青少年問題協議会は二十五日、「青少年の自立を助けるための条件を整備することが、今日の行政の新しい課題であり、役割だ」との中間報告をまとめ、鈴木知事に提出した。問題行動の続出を、「幼児期からの育ち方にも起因する、現代っ子たちの自立の遅れと無関係ではない」として少年自身の甘えを指摘。またそれを助長させてきた社会全体の責任も突いている。…
 (中略)
 「進学、受験体制の激化と、それへの対応を求める親たちの期待が、今日の学校の健全なあり方を脅かしている。親の欲求を反映しての塾や予備校などの乱立は、子どもの心身の健康な発達を損なうほどに、子どもの余暇時間を奪うものとなっている」など、教育の荒廃にも触れているが、全体を通して、同報告書に貫かれているのは、いわゆる青少年をめぐる諸問題の中心には、「勝手気ままを通そうとする、自己中心主義(ミーイズム)がある」との考え方だ。
 「親となっても、その個人が社会のメンバーとしての存在に成長しているか、どうか。それを問わなければならなくなっているところに、今日の青少年問題の特色がある」ともいっており、「社会のメンバーとしての役割を教える訓練の場が、家庭からも、学校、地域などからも失われてしまったことが、青少年の自立(自律)を遅らせ、ミーイズムの進行に拍車をかけている」と指摘。これに歯止めをかけるために都に対し、「青少年が自立に向かうような生活環境(家庭、学校、職場、地域社会を含む)の実現などを、青少年行政の中心課題とすべきだ」と提言している。
 (後略)

 別の記事では「ミーイズム」は70年代アメリカからでてきたものとされている。新しい言葉を得た若者批判は、この語しばらく「ミーイズム」という言葉で再生産されていく。


■1986年 読売新聞朝刊 
 「背広を着た新人類」(引用者:4月1日〜16日、12回にわたる連載)

第一回 
日替わり定食型
期待するほど変化なし

お芝居気分で勤めてみるか
目に輝きなく胸もはずまず

 四月、巣立ちの時。今年も“新人類”たちが、真新しい背広に身を包み社会人としてデビューした。いままでの若者像とは一味も二味も違う彼らの参入は、受け入れる企業側にいやも応もなく新しい対応を迫り、ニッポン社会の変質を促しているようだ。

 「別に入りたくって入った会社じゃないんで、イヤなことはやらずテキトーに過ごしますよ」。一流私大から人気の大手家電メーカーに入社した中森麻人君(22)…仮名…の抱負はまことにそっけない。
 「会社にとっては『カワイくないヤツ』でしょうけど、定年までいるつもりないしね」めったなことでは目を輝かせたり胸はずませたりしないのが、新人類の特性だ。
 年長者が新参者をつかまえて「近ごろの若い連中は…」と批判するのは、いつの時代も変わらない。それが戦後派、安保世代、団塊の世代、シラケ世代などのネーミングを生んできた。ところが、さいきんの「新人類」という呼称は、一世代をくくるワクとしていささか刺激的で、きつい。「もはや理解を絶する」「話が通じない」とサジを投げた“旧人類”の驚きと嘆きが込められているようでもある。
 現代コミュニケーションセンター所長、坂川山輝夫さん。企業の新人研修の講師として、毎年七、八十社をこなし、その時々新入社員の特色を観察する。その坂川さんが今年の新入社員につけたタイプ名は「日替わり定食型」。ココロは、期待した割には変化に乏しい。
 坂川さんによれば、新人類社員の誕生は昭和五十八年入社組からだという。五十四年(五十八年入社組が大学に入った年)は共通一次試験が初めて実施された年である。「偏差値重視の新入試傾向が新人類を生んだ」というのだ。
 とすれば、ことしの新入社員は新人類四期生ということになる。企業側は戸惑いの期待を過ぎ、一応の対応法を見つけ出しても良いころだ。
 「残業を命じれば断るし、週休二日制は断固守ろうとする。だから、仕事は金曜の夕方までにわれわれ上司が手を貸して片づけさせるしかないんです」(保険会社課長)。「社費留学で海外にやると、帰国したとたん会社をやめてしまうんで、期間を短くしたり、帰国後にノルマを課したりしています」(商社部長)。
 ニッポン企業では残業が激減し、週休二日制が定着しつつある。離職・転職はふえる一方だ。これらをすべて新人類社員のせいにするわけにはいかないだろう。しかし日本株式会社を特色づけてきた「働きすぎ」「終身雇用制」「滅私奉公」といった傾向が薄れ、欧米型の企業システムに近づいてきた背景には、やはり新入社員の存在が大きく働いているといっていい。
 五十九年に一橋大を出て「パルコ」に入社、一年半後にやめて今は「プータローしてる(…)」という中野純さん(二五)に退社の動機を聞いた。「別に直接のきっかけじゃないけど、例えば社長の母親のお葬式の時、動員されて一日式場前で交通整理をやらされた。やっぱり、イヤなことは理屈ぬきでやりたくないですよね」。「サラリーマン社会のいびつさ」を体験した中野さんは、こう続ける。「いったん抜けて余裕ができたから、今度は冗談半分に、演劇をする気分でサラリーマンがやれそうだな。いっそ、えらく堅い会社に入ってみるのも悪くないですね」。

 記事では前半、1986年4月の新入社員から突然「新人類」があらわれたように書いているが、後半では坂川氏の四年前から「新人類」という考えを紹介している。批判の内容も「ゆとり世代」批判と似ている。教育制度を原因にもってくるあたりも。ただ、「ゆとり世代」というくくりはあまり新聞ではみかけないのはなぜだろう。ネットや日常会話では異常なくらい聞くが。


■1986年(09月28日)読売新聞(東京朝刊 二面)

「“将来への努力”より“毎日の生活”「新人類」は安定志向/若者意識総務庁調査」

 最近の若者は自分の信念を大切にしたいと考える一方、「他人が自分をどう見ているか」という“他人の目”を気にし、他人への気配りにも神経を使っている。また、「将来のための努力」より「毎日の生活」を楽しみ、安定志向が強く、親友とも適度に距離を置いてつき合っている――総務庁が二十七日発表した「現代青年の生活志向に関する研究調査」からこんな若者像の一端が浮き彫りになった。
 調査は昨年十、十一月に個別面接で実施した。対象は十九歳から二十八歳までの男女四千五百人。有効回答率は七三・〇%だった。
 【人生観】「一番大切なことはみんなで力を合わせていくこと」という協力志向派が八九・二%と、最も高い比率を占めた。また、「他人にどう見られているか気にする」(六九・九%)、「自分のことを考える前に他人のことを考える」(六九・〇%)もかなりの比率を占め、周囲とのかかわりを重視する一面が浮き彫りになっている。
 【職業観】「気楽な仕事より、やりがいのある仕事をしたい」が七五・〇%を占めた。しかし、「発展性より、安定している企業に勤めたい」(六八・四%)という安定志向が強く、「仕事より余暇を大切にしたい」(五九・五%)も過半数を超えている。
 【余暇】自由時間にしたいことでは「旅行、ドライブ」が六七・七%と最も人気が高く、次いで「スポーツ」(五五・一%)、「友達との交流」(五四・五%)、「のんびりする」(四六・九%)、「音楽を聴く」(四四・一%)と続く。これに対し、「精神面の充実」(一〇・四%)、「ボランティアなどの社会活動」(三・四%)と精神主義”のカゲは薄い
 【友人関係】一番親しい友人との関係の現状を聞いたところ、「一緒にいて疲れない」が五六・三%とトップ。「お互いの性格は裏の裏まで知っている」(二七・三%)、「けんかをし合える」(二〇・二%)という密着した関係は少なく、親友といえどもある程度距離を置いた付き合い方をしていることがうかがえる。…
  【情報源】情報メディアとの“付き合い”をみると、テレビが一日平均一時間四十八分と最も長く、次いで本(三十一分)、新聞(二十二分)、マンガ以外の週刊誌、雑誌(二十一分)の順。マンガは意外に少なく十二分で、「ほとんど読まない」と答えた者が六〇%に達している。…
 【消費態度】「支払いには苦労するほどクレジットですぐ買ってしまう」と答えた者が一八・九%おり、自分のブランド志向を四二・一%が認めている。また、「人とは違った品物を選ぶ」が過半数を超え、消費面での個性重視の傾向がうかがえる。

 いったい長い歴史の中で、大多数の人が安定を願わない世などあったのだろうか。20%は安定性より発展性と答えているのだとすると、かなり大きい数だと思うのだが。僕にはそんなチャレンジングな思想はないっすよ。同様に、「余暇より仕事を大切にしたい」と本気で思う人が過半数いた時代などあったのかね。それでも86年には40%がそれに近い考え方してる…。十分多い。
 それにしても「意識調査」ってのはクセもので、結果をみた人が環境要因を勝手に付け加える、ってことがよくなされる。そうでなくとも、この「意識」を要因に見立てて別のなにかを説明しようとする。


■1993年(03月01日)朝日新聞(東京朝刊 声 12ページ)

「いまの若者(テーマ討論) 」
茅ケ崎市 岸重雄(会社嘱託 65歳)

 最近、街で見かける若者たちの中に、男女の区別をつけにくい者が多いのは、いささか閉口だ。後ろを歩いていて前に回って、男か女か確認したくなるような衝動にかられることが、しばしばある。
 男なのに頭は長髪、なで肩で、顔は、いかにもやさしい。どこから見ても女性的なのだ。しかも、男女共通のジーンズスタイルともなると、何ともややこしい。むしろ、若い女性たちの威勢の良い会話を聞いていると、彼女たちの方が、よほど男に見えるからおかしい。
 かつて、若者に求められた気風に「質実剛健」がある。文字通り、この言葉は飾り気がなく、まじめであるというものだが、昨今の若者は、男女の別なく、せっせと身辺を飾っている。しかし、男女とも「らしさ」を埋没させてしまって良いということではないだろう。
 男が素直で、やさしいのも程度があり、大学生になっても、ママのテリトリーから離れられないマザコン坊や、社会性、集団性に乏しいモラトリアム人間で、企業社会に入って六月病になり会社を辞めてしまうようではいただけない。やはり、男は、男らしい逞(たくま)しさと、質実剛健の気風がほしい。
 女性も、女性らしく「○○してよお、ばかだなあ、お前よお」といった男言葉は、やめにして、女性のやさしさが、にじみ出るような言動をしてもらいたい。

 性差別甚だしい男女別々の規範を説き、それを若者が守れていないことを嘆いている。

松本市 太田将信(学生 19歳)

 若者を評するとき、やれ「主体性がない」だの、「協調性がない」だの、さんざんなことが言われている。恐らくそのとおりで、批判の内容はおおむね正しいのであろう。しかし、その若者をつくってきたのは一体、だれなのであろうか。
 子供たちについても「感受性がない」とか、「社会性がない」とか言われている。しかし、そんな子供たちをつくり上げているのは一体、だれだ。
 ゆとりがなく、自然がなく、人間関係がなく、コミュニティーがない世界で育てられることを自ら望んだものはいない。
生まれたときから、熾烈(しれつ)な受験戦争に志願して行くものがいるものであろうか。
 だれだって遊びたいに決まっている。東大を出たところで、せいぜいサラリーマンになるのがオチである。まして「大学とはなにか」も知らない小学生が、なぜ大学へ行きたがるのか。
 すべて今の社会の風潮であろう。それは一体、だれが作った社会なのか。
 今の若者をしかってくれていい。それどころか、どんどんしかってほしい。でも、その後に、その若者をつくったのはだれなのか、振り返ってほしい。学歴社会をつくり、山を削り、人生にただ一本のレールを敷いたのはだれなのか、考えてほしい。
 文句を言うのは簡単である。でも、ただ文句を言うだけでは社会に対する責任転嫁に過ぎない。何がどう間違っているのか、どうすればいいのか、この社会に住む人間が一緒に考えていかねばならないことだ。考える義務があるのだ。

 一般的な傾向化どうかは不明だが、若者批判を受け入れる若者はけっこうみかける。

浦和市 佐藤ゆかり(会社員 33歳)

 私はもう「若者」と呼ばれる時代を超えている。かといって、「今の若者は」と言える年代でもない。
 が、この言葉を聞くたびに、「ちょっと違うんじゃないの」と反論したくなることが多い。
 人は一人ひとり、それぞれ違う。自分が感じたと同じことを相手に求めるのは間違っているし、別のだれかが正しいと思うことを、私に望まれても困る。
 環境も考えも生き方も違う人間が寄り集まっているのが世の中であり、互いに歩み寄りながら暮らしているのが社会だと思う。そこを踏まえないで語られる話は、あまりにも断片的と思うのは私だけだろうか。
 現に周囲を見渡してみれば、一日に二回も体を洗う二十代の男性もいれば、一週間に一回しか入浴をしないという、同じ二十代の人もいる。
 一方、五十代は、とみれば、猛烈サラリーマン時代を引きずって、何でも自分がやらなければ気のすまない人もいれば、世に背を向け、苦笑まじりに「まあ、いいじゃないか」が口癖の人もいる。
 つまり、人は年齢や性別で判断されるべきではない。それぞれが個々のパーソナリティーをもち、生き方に従って生きているのである。
 もしも、あるできごとに無関心な若者に出会ったとしても、それはその人が無関心であるだけであって、若者の皆がそうだとは決して限らない。

 たとえある会社の新入社員すべてがおとなしかったとしても、隣の会社の新入社員は全く違うかもしれない。(大体、社会も仕事もよくわかっていない新人に向かって、「意見を言え」だとか「好きなことをやれ」と注文をつけるほうが無理というものだ)
 時代によって社会の仕組みの変化や風潮があったとしても、人はそれぞれ個性というものを必ずもっている。私はそれを声を大にして言いたい。

 至極まっとうな意見は今も当時も当然あり、それを紹介する余裕も1993年の朝日新聞にはある。


国立市 岡本和政(会社員 33歳)

 若者論は、いつの世にも存在します。学生運動をやった団塊の世代が今の若者たちを批判するのなら、自分たちの若い時を想起すべきでしょう。
 そこでは、今は古希に達した親たちから、苦しかった軍隊生活や戦争体験、旧制高校の寮歌放吟の青春時代を語られて、「今の若者は」という言葉を浴びせられたはずです。結局同じことが繰り返されているのです。

 「その国の将来を知りたければ若者を見よ」との格言があるそうです。では全共闘世代が社会の中心となっている今日の日本は、いかなるものか。
 「企業・内ゲバ論」なる予測もありましたが、それも起きずじまい。自分の娘が読みふける吉本ばななのお父上、隆明氏の本を感泣して読みふけり、「混迷せる情況を告発する」ことにご執心であったのが、今では「整然たる情況の構築につとめる」二十四時間ビジネスマンに変わり果てています。
 ヒラオカマサアキの過激なエッセーはヒラオマサアキのカラオケソングに、学生時代タカハシカズミといえば「憂鬱なる党派」「邪宗門」であったのが、社会へ出てからは、それは巨人の左腕投手を指し、断固粉砕だったはずの「三里塚」空港から海外渡航し、ヘルメット、ゲバ棒、拡声機がアポロキャップ、ゴルフクラブ、そして酒場のハンドマイクへと変わってしまいました。
 大まかで皮肉な見方かもしれません。しかし、かつての若者だった団塊の世代は現在、かくのごとき社会生活を形成しているように思えるのです。まもなく新人類といわれた世代がこの世の中を引き継ぎ、さらにはイチゴ世代がそれにとって代わります。彼らも、やがて同じ道を歩むでしょうか。
 私自身はそういわれても「だからどうした」としか答えられません。そういう前に皆、今一度、自分の若い時をよく思い起こすべきでしょう。

北九州市 内川泰子(理容業 51歳)

 「近ごろの若い子は、根気がなくて困る」と同業者のMさん。お弟子さんが長続きしないと嘆く。注意すればプイとふくれるし、しなければ何をするか分からない。はれ物に触るようにして育てて、やっと少し仕事ができるようになった途端、辞めてしまうという。
 かつて、わが家でも弟子を育てていたので、その気持ちは良く分かる。思わず同情してしまう。
 彼ら、彼女らに仕事をさせると、お客様は嫌がる。が、やらせないことには、いつまでたっても腕が上がらない。その結果、お客を他店に逃がすことになり、弟子を育てるには相当の犠牲を払わなければならないのである。
 三十数年前、私が修業を積んだころは、厳しい徒弟制度の真っただ中。明けても暮れても仕事、仕事の六年間であった。たまに昔の仲間に会えば、話は決まって当時のつらかった経験談になるのだが、今ではそれがとても懐かしい。
 今の若者に、昔の話をすると「時代が違う」と一笑に付されるかも知れない。だが、技術を修得するという点で、根性や忍耐力は絶対に必要である。
 このところ、理容師養成施設の入学者数が激減し、その結果、国家試験の受験者も大幅に減少したと業界紙が報じている。
 「修業」とか「下積み」という言葉自体に拒否反応を示し、敬遠する若者が増えたからだ。それが業界の後継者不足や技術の低下という深刻な形となって表れ始めている。


カリフォルニア州 伊達民彦(会社員 45歳)

 八日本欄、岡本和政氏の学生運動をやった団塊の世代に対する批判を、その一員として耳痛く受け止めました。昔の仲間はどんな思いで読んだかなあ、と苦笑させられました。
 同世代から大統領まで出したアメリカとは比較できませんが、日本でも我らの世代が、少なくとも経済界では実質的な中心となっているのは事実です。なにぶん数が多いですから。
しかし、それゆえに、今の不況の中では、リストラという名の人員整理の最大の対象になっています。学校を出て、ひたすら「整然たる情況の構築につとめ」てきたはずが、突然、配転やら出向を命じられ、あげくの果てに自己都合退職を強要されたりして「経営者をうらむ」のは二重の悲劇というものです。
 そんな悲劇を避けるために、今の若者に贈る言葉があります。それは「自立」です。かの吉本ばななの父上、隆明氏から我々が学んだことの中で、最も大切な言葉だったと思います。
 何ものにも寄りかからず自らの足で立つ、のは決してやさしいことではありません。集団志向の強い日本社会では摩擦の種となるでしょう。
 しかし、志としての「自立」があれば、自分と会社さらには社会との関係を客観的に捕らえられます。自立した人が今の若者に増えるなら、やがて彼らが社会の中心になったとき、日本も本当の意味で国際化されると思います。

 若者へ向けてメッセージを送りたがるのもの、ある種の若者観の反映だろう。


川越市 小山知恵子(主婦 44歳)

 取っ組み合いのけんかをし、一日中、野原を駆け回り、雨が降れば水たまりでビショビショになって遊び、ランドセルを玄関へ放り出して遊びに行き、目はキラキラ輝かせていました。今は、大学生となった息子の、暗いトンネルに入る前の小学生時代までの日常です。
 それが中学に入って、時間を学校に奪われて「カンリ」「カンリ」の中で勉強、部活。日曜、祝日まるでなし。「くだらない」と思いながら、宿題を作業のように片付けていく。
 家では暇さえあれば寝てばかりで、目はトロン。遊ぶ気力もなくなり、頭は暗記するだけの器官。先生にはなんのかんのといじめられ、行き着く先は大人不信。何とか大学までたどり着き、管理から解放されたけれど、すっかり翔(と)び方を忘れてしまい、ようやく取り戻した時間の使い方さえも忘れてしまった。これは私の子どもに限ったことではないだろう。

 「今の若者は」と言う前に、一体、だれが今の若者を育てたのでしょうか。
 私自身の反省も含めていえば、大人は本当の愛情を持って子どもを育てたでしょうか。

 何が大切なことかを教えたでしょうか。
 たくましくなるように鍛えたでしょうか。
 世の中が良くなるように努力したでしょうか。
 次の世代を育てることは大変なことなのに、立派な大人たちは金もうけに一生懸命になって。大人には、「今の若者は」を嘆く資格はありません。

 若者批判に近い若者へのまなざしをむけつつも、その責任を「教育」や「大人」に帰せ、若者批判は不当だという主張。

 朝日新聞がどういう基準で掲載したのかはわからないが、若者批判に反対する声が多い。



■2003年(08月06日)朝日新聞(朝刊 総合 2ページ)

新入社員は安定志向? 独立より終身雇用 産業能率大アンケート

 入れた会社で管理職を目指して長く勤め、社長のイスは望まない――。こんな傾向が、産業能率大学が新入社員に対して行ったアンケートで出た。年功序列や終身雇用への支持が増えている。産能大企画広報室は「チャレンジ精神が希薄化し、安住を志向している」とみている。
 将来の進路を問う質問では、「独立して起業」をあげた新入社員が前年より8・9ポイント減って11・5%になった。「管理職として部下を動かす」は8・0ポイント増の30・4%。
 「目標とする地位」は社長が19・7%から16・3%に減ったのに対し、部長は11・9%から17・6%に大幅アップ。「地位には関心がない」という人は53・0%から47・7%にちょっと減った。
 人事や報酬でも、「年功序列制度を望む」が5・5ポイント増(32・1%)で「年俸制を望まない」が3・3ポイント増(47・8%)だった。「終身雇用を望む」も1・6ポイント増えて52・1%と、安定志向が強まっている。
 調査は600人を対象に3、4月に実施、462人から回答を得た。

 母集団はいったい何なのだろう。


■2004年(08月21日)朝日新聞(朝刊 be週末b3 53ページ)

酔っぱらいダサい? 最近の若者、酒飲まない(beReport)

 新入社員を酒席に誘ったら断られた――。こんな経験をする年長者が増えている。「最近の若いやつは、つき合いが悪い」。赤い顔で、おだをあげる向きも多いが、実は最近の若者、急速に酒を飲まなくなっているのだ。原因を探ると、笑えない現実に行き着いた。(川口恭)
 最近、酔いつぶれる若者がめっきり減った。大衆的な居酒屋チェーンを経営する村さ来本社の宮崎泰豪・村さ来事業部東京営業部長の実感だ。数年前まではサークルなどの宴会が多く、イッキ飲みが当たり前だった。ここのところ宴会が減り、少人数のグループや合コンで騒がずに飲む姿が目立つという。
 飲み方がおとなしくなっただけではない。酒を飲む若者自体も減っている(グラフ手前左)。特に男性は、ほぼ一貫して右肩下がり。酒類メーカーがそれぞれ独自に行っている調査でも、同様の結果が出ている。飲酒頻度の下がる傾向も見えるという。
 若者の酒離れだけが原因ではないが、国税庁の酒税統計によると、ここ数年、酒税課税額は減少の一途(グラフ左端)をたどっている。居酒屋やビアホールなどの市場規模も92年をピークに2割小さくなった。

 (中略)

◆希望抱けぬ日本、体現
 そもそも、若者の酒離れはなぜ起きたのか。
 大きな影響を与えたと考えられるのが、長く続いた不景気だ。
 03年版国民生活白書によると、20代で「昨年より生活が向上した」と答えた人の割合が、90年にプラス6・5%、96年にプラス5・1%だったのに、02年にはマイナス6・8%と逆転してしまった。総務省の家計調査でも、00年度に1カ月20万4千円あった20代世帯の消費支出が、03年度には18万6千円まで減った。就職せずフリーターになる若者も増える一方だ。
 収入が減る一方、携帯電話やインターネット、ゲームなど、娯楽は多様に。酒への出費は減らざるを得ない。ただ、博報堂生活総合研究所の原田曜平研究員は、単純な金銭問題より、彼らの行動様式と価値観の変化を重くみる。
 酒の三つの効用を必要としなくなったというのだ。三つとは、(1)仲間との連帯感を深められる(2)自分を忘れてバカになれる(3)ストレスを発散してリフレッシュできる。
 (1)は携帯電話やメールの普及で人間関係が広く浅くなったこと、(2)はネット仮想空間の発達で酒の力を借りなくてもバカになれるようになったことが理由という。

 (3)は、根が深い。酒を飲んで日ごろの留飲を下げられるのは、経済が右肩上がりの年功序列社会で、今を耐えれば将来は良いことがあると思えたからだ。それがもはや通用しない。こうなれば会社などのタテ社会のストレスに耐える気もなくなる。逆に酒を飲んだところでストレスは解消されず、リフレッシュにもならない。
 サントリーRTD事業部の和田龍夫企画部課長は原田説の(3)と同じような見解だが、酒離れの背景に、若者ならではの純粋さも感じている。
 「彼らがムチャ飲みして酔っぱらいにならないのは、酔っぱらいをダサいと思っているからです。陰で上司の悪口を言って憂さを晴らすような姿が、目前の障害に正面から向き合わず逃げているように映るのでしょう。彼らなりに逃げないようにしたら、結果的に酒離れになったんじゃないですか」
 
 <参考情報> 宝酒造が2月に20代・30代の独身男女を対象に行った調査によると、飲酒を伴う外食によく行く相手は「学生時代からの知人」が73%、「恋人」が62%。一方、「同じ部署の同僚」は30%、「同じ部署の上司」は17%に過ぎなかった。「飲みニケーション」は消滅しつつある。

■2009年(07月05日)朝日新聞(朝刊経済 7ページ)

 新入社員、「デートより残業」83% 日本生産性本部アンケート

 デートの約束があるとき残業を命じられたら、どうする――。日本生産性本部が今年の新入社員にアンケートしたところ、8割以上が残業を優先すると回答した。不況下で働き始めた新人たちが、リストラへの不安を抱えながら仕事に取り組む様子が浮かび上がった。
 同本部の研修に参加した新入社員3172人から回答を得た。「デートの約束があるとき残業を命じられたら」との質問に、「デートをやめて仕事をする」と答えたのが83%。同じ質問を始めた72年以降で最多。残業派を男女別でみると、女性88%、男性79%だった。
 「断ってデートをする」は17%。デート派の比率はバブル崩壊直後の37%(91年)をピークに減少傾向が続く。
 また、「いずれリストラされるのではないかと不安」と答えたのは46%と、08年より6ポイント増えた。「人並み以上に働きたい」との回答は41%で同2ポイントの上昇。不況のなか、新人が厳しい自覚をもって職場に臨む姿がみてとれる。


■2010年(12月19日) 朝日新聞(朝刊 経済面 6ページ)

新入社員7割「嫌な仕事でも我慢」 日本生産性本部が意識調査

 嫌な仕事でも我慢して続ける――。財団法人日本生産性本部が今春の新入社員を対象に意識調査したところ、7割を超える社員がこう答え、過去最高となった。
 同本部の研修に参加した企業の新入社員317人を対象に調査した。自分の考え方に近いものを選ぶ設問で、「自分のキャリアプランに反する仕事を、がまんして続けるのは無意味だ」について「そう思わない」が74.4%に上った。同じ設問ができた06年以降で最高だった。
 「キャリアプランを考える上では、社内で出世するより、自分で起業して独立したい」「若いうちならフリーアルバイターの生活を送るのも悪くない」という設問についても、「そう思わない」とした人がそれぞれ83.4%、75.4%と過去最高になった。
 調査を担当した同本部経営開発部の堀部大介さんは「就職難をくぐり抜けて入ったこともあり、今の会社での仕事を優先する傾向が強まっている」と指摘している。


■2010年(05月10日)産経新聞(東京朝刊 社会面)

新社会人は「ゆとり」を自覚−。今春大学を卒業した新入社員に、自分たちの世代をどう名付けるか聞いたところ、22%が「ゆとり世代」と答え、最も多かったことが、人材コンサルティング会社「レジェンダ・コーポレーション」(東京)の調査で分かった。

 新社会人は高校時代、教科内容を削減した現行の学習指導要領で学んだ“ゆとり第1世代”。「ゆとりといわれているし、そう感じるから」「指図されて動くから」などの理由を挙げた。4月中旬にインターネットで調査し、477人が回答した。

 「氷河期世代」が8%で続き、「リーマンショック世代」「不況(不景気)世代」も上位。「世代間ギャップを感じる」という先輩・上司の平均年齢は36歳で、「仕事が人生だと思っている」「プライベートを犠牲にしている」が理由。61%が同期を「友達」と考え、「ライバル」と答えたのは29%だった。

同社はゆとり世代の新社会人は競争を嫌い、仕事よりもプライベートを重視する傾向がある」と分析している。(2010年05月10日 大阪夕刊 1面)

 カテゴリーを与えられた人々は、自らでそのカテゴリーを受け入れ、カテゴリーに付与する内容をも受け入れることがある。
 「ゆとりといわれているし、そう感じるから」。だが、「仕事よりもプライベートを重視する傾向」は、1972年の新入社員にも(「公私をはっきり分離して、プライバシー領域を最大限に守ろうという傾向」)、1986年の若手社員にも(「残業を命じれば断るし、週休二日制は断固守ろうとする」)みられる。


■2011年07月01日 朝日新聞(朝刊 社会面 37ページ)

新入社員「定年まで」希望 意識調査、過去最高34%

 日本生産性本部が30日発表した新入社員対象の意識調査で、今の会社に「定年まで勤めたい」との回答の割合が34%となり、1971年に同じ質問を始めて以来、最高となった。担当者は「震災による失業などが報道されるなか、雇用の安定への関心が高まった」と分析している。
 調査は、東日本大震災直後の3月14日から4月30日まで、同本部主催の新入社員研修で実施し、42社計2154人から回答を得た。「この会社でずっと働きたいか」との問いに対し、「定年まで」の回答は調査開始時は21%だったが、2003年には最低の14%に低下。その後、上昇に転じ、今年は、昨年から9ポイントアップと大幅に増えた。
 会社を選んだ理由では、「将来性」との回答は8%にとどまった。多かったのは「自分の能力、個性が生かせる」(37%)「仕事がおもしろい」(27%)などだった。