William Shakespeare, 1595?, Romeo and Juliet.を読む

中野好夫訳、1951→1996、『ロミオとジュリエット』新潮社.


■内容
 ロザラインへの叶わない恋に悩むモンタギュー家のロミオを、友人たちが敵対するキャピュレット家の晩餐に誘う。そこでロミオはキャピュレットの娘ジュリエットに一目ぼれする。ジュリエットも恋に落ちており、窓からロミオへの想いを語っていると、ロミオが現れ結婚の約束をする。次の日の午後、ロレンス上人の立会いで秘密裏に結婚をすませる。
 しかし、その日のうちにキャピュレット家とモンタギュー家の親族同士の争いに巻き込まれ、キャピュレット家の者を殺してしまう。これによってロミオは追放となり、ジュリエットに別れを告げ、去る。悲しむジュリエットのために、キャピュレット夫妻は大守の縁戚である貴族のパリスと結婚させようとするが、ジュリエットは嫌がり、ロレンス上人に相談、眠り薬を用いて死んだことにし、やりすごすことにする。眠り薬はうまく働きパリスとの結婚はやり過ごせたが、不慮の事故でロミオに手紙が届かず、ジュリエットが死亡したと勘違いしたロミオはジュリエットの墓へ来て自害する。眠りからさめたジュリエットも、ロミオをみて後を追うように自害する。(Pada要約)


■訳者解説と感想
 戯曲や小説を読む教養がないので、中野氏の解説によってシェイクスピアの偉大さは理解できたが、「歴史的意義」以上のなにかを感じることはできなかった。だが中野氏の解説は非常に勉強になるので、特に三点紹介したい。一点目は劇場について。シェイクスピアが本作品を書いたとき念頭にあったのはエリザベス朝劇場である。これについて中野氏は詳しく説明しているが、小さな劇場であったこと、室外であったこと、ほぼ無背景であったこと、全面の幕がなかったことなどから、役者による言葉による説明が重要であったことが述べられている。状況説明や時間を説明するせりふが多いのはこのことに由来するらしい。知らないで読むとなんだか説明くさいなと感じてしまう。
 中野氏の解説で興味深かった二点目は、シェイクスピアが原作に加えた改変について。敵対する家の間の恋とそれによって悲劇となるという話は「世界とともに広く、歴史とともに古い」らしい。さらに、眠り薬による結婚回避の主題も紀元前からあるし、モンタギュー、キャピュレット家の確執も古くからある。1530年ルイジ・ダ・ポルタによる『二人の高貴なる恋人の物語』はロメオとジュリエッタによる話の大筋ができあがっている。その後、ロザラインの話、乳母の登場、ジュリエットが覚醒したときにはロミオが息絶えていることなどが付け加えられ、シェイクスピアが直接使用したアーサー・ブルックの『悲話 ロミュスとジュリエット』(1562年)にいたる。ここでほぼ素材は出揃っている。シェイクスピアが行った改変は、1.長い物語詩であった原作を、急激な物語展開をする五日間の物語に変えたこと、2.マキューシオ、乳母に精彩ある性格を創造したこと であるという。たしかにこれが4千行の物語詩で、9ヶ月間の物語であったら、冗漫で読む気がなくなるかもしれない。『ロミオとジュリエット』が読みやすいのは、展開のテンポが良いからであるといえるし、それが悲劇性を強調しているともいえる。乳母やマキューシオの性格はたしかにおもしろく、深みがあるが、現在のさまざまな文学や物語に慣れていると「天才の霊腕」といって過剰に強調されると違和感がある。シェイクスピアがそれへの道筋をつけたという歴史的な意義があるのかもしれないが、現在の水準でいっても突出しているといえるほどではないのではないか。
 中野氏の解説では、この『ロミオとジュリエット』が、他の悲劇と比べて宿命性を強調している点に注目している。『ハムレット』や『リア王』の性格悲劇のように、悲劇的な結末の原因がだれかに帰属されることがないのである。中野氏が指摘するように本編中にも「運命」「人間の力ではどうにもならない大きな力」といった言葉が何度もでてくるし、筋としても、ロミオがティボルトを殺すことになるのはロミオの性格のせいとはいえないし、ロミオにジュリエットの計画についての手紙が届かなかったのも単なる偶然である。さらに、両家の対立は絶望的なほど激しいわけではなく軽いいざこざ程度の対立であるという点も、逆に二人が死ななければならなかったことの逃れがたさを強調するように思われる。このように完全に運命に依拠しているため、中野氏のいうようにこれは悲劇にも喜劇にもなりうる物語なのである。だが、それとこの劇のおもしろさとはまた別なような気がする。シェイクスピアは性格悲劇で知られるため、『ロミオとジュリエット』のこの点を指摘することは、シェイクスピア研究にとっては意味のあることかもしれないが、『ロミオとジュリエット』の一読者としてはそのこと自体はあまり関係ない。この宿命性の強調が物語りをよりおもしろくしているのか、そうでないのかを考えなければならない。
 私にはそれを論じる能力はないが、シェイクスピアの改変と、運命悲劇的側面は「好き」だ。たった五日間のうちにどんどん物語が展開することも好きだし、本人たちがどうしたってこうなってしまっただろうという宿命性も好きだ。本人たちの性格や行動に悲劇の原因が描かれてしまうとどうも説教臭いし、そんなんで運命変わっちゃうのーと思ってしまったりする。どうしたって、どうにもできない、その感じが個人的にはすごく好き。にもかかわらず、それほどおもしろいと思えなかったのは、戯曲を読みなれていないからなのか、冗漫なセリフについていけないのか、筋を知っていたためなのか、翻訳が古いからなのか…。よくわからない。


■興味深かった点
 物語を読んだときには「おもしろい」とは思えなかったが、物語を考えたときには「おもしろい」点がいくつもでてきた。

▲ロミオの「軽さ」と「重さ」
 ロミオは恋に大真面目である。すごく「重い」。自分の想いが届かず、悩む場面で以下のように言っている。

諍いながらの愛……愛する故の憎しみ……
ああ、そもそもが無から生まれた有……
心沈む浮気の恋……大真面目の戯れ心……
外目は美しい物みなのつくり出す醜い混沌……
鉛の鳥毛、輝く煙、冷たい火、病める健康……
眠りとは呼べ、真実の眠りならぬ覚めての眠り……(第一幕第一場168:24p)

恋とはね、いわば深い溜息とともに立ち昇る煙、
浄められては、恋人の瞳に閃く火ともなれば、
乱されては、恋人の涙に溢れる大海ともなる。
それだけのものさ。ひどく分別くさい狂気、
息の根もとまる苦汁かと思えば、生命を養う甘露でもある。(第一幕第一場182:25p)

ただ、この「重い」恋を支えているのは、相手の「美しさ」のみである。

あああ、せっかく麗しさに恵まれた身も、宝を抱いて死んだんじゃ、
種もろともに滅びるわけ、その点じゃ拙い運命というものだ。(第一幕第一場207:27p)

美という奴は情け知らずに飢えさせると、
結局子々孫々の美しさまで、摘み取ってしまうことになる。(第一幕第一場211:27p)

したがって、さらに美しいものが現れれば、恋の対象は簡単にうつってしまう。
ここにロミオの「軽さ」が見られる。


ベンヴォーリオがロザラインのことを忘れさせるためにロミオをキャピレット家の宴会に誘うとき、「美人がたくさん来るのでロザラインのことを忘れられるだろう」と言うのだが、これに対してロミオは以下のように答える。

敬虔な、信仰にも似た気持ちで仰いでいるこの僕の眼が、
かりにもそんな偽りを言うとすれば、涙は炎に変わってしまえ。
そして幾度か涙の河に溺れながら、まだ死に切れぬこの両の眼、
見え透いた異端者どもを、偽り者として焼き殺してくれ。
僕のロザラインよりも美しい女だと?万物照覧のあの日の神でさえ、
この世はじまって以来、あの女ほど美人を見たことはないはずだ。(第一幕第二場85:34p)

しかし、その直後、ジュリエットにあった瞬間この「信仰にも似た気持ち」はあっさりとなくなってしまう。

おお、一きわ鮮やかなあの美しさ、まるで炬火に輝く術を教えているかのようだ!
さながら黒人の耳を飾る、光眩い宝石のように、
いわざ夜の頬に垂れる瓔珞とも見紛うばかり。
日々の用には豊麗すぎ、この世のものたるにはあまりにも貴い。
余の女たちに立ち交じって、一きわ目立つあの美しい姿は、
まるで鴉の群れに伍する、雪を欺く白鳩の風情だ。
この踊りが終れば、あの姫の居場所を見届けた上で、
一つあの手に、俺のこのむくつけき手を触れてみたいものだ。
それにしても、俺の心は今まで恋をしたなどといえるだろうか?
眼よ、否と言え!まことの美しさを眼に見るのは、今宵が初めてだからな。

なんとも軽いではないか。
いや、実際一目惚れというのはそのようなもので、「運命の出会い」は何度も訪れるのかもしれない。しかし、ついさきほどまでロザラインのことで頭がいっぱいだったのに、心変わりした自分を反省も、責めるもせずに、今までのは恋なんかじゃなかったと言い切るあたり、とても軽くて、すがすがしい。


とはいえ、老人にとってはびっくりするものらしい。
僧ロレンスの話。

いや、驚いた話、なんというこれは気の変わり方なのだ!
あれほどまでも思い焦がれていたロザラインが、そんなにも呆気なく、
思い切れたというのか!してみると、若い者の恋というものは、
まこと心にはなくて、眼一つにあるのだな。(第二幕題三場65:83p)

彼も「美しさ」だけで恋をしてることを皮肉っぽく指摘している。
(そんな彼も二人の結婚の準備をその日のうちに用意してしまうのであるが…。)


▲「結婚」について
 当時の結婚がどういうものだったのかは良くわからない。僧ロレンスは、二人が愛し合ってることを確認しただけで結婚させてしまった。両親の意向は関係ないのだろうか?

 パリスがジュリエットと結婚したいと考えたとき、彼はまず最初にジュリエットの両親に相談に行っている。この点で両親の存在はやはり大きいように思われる。しかし、キャピュレット自身は以下のように述べ、二人の気持ちが大事であることを示唆している。

だが、パリス君、とにかく本人に言い寄って、心をつかむことですよ。
わしの意向などは、彼女の承知へのほんの添え物にすぎん。
彼女さえウンと言えば、わしの同意、承諾などは、
むろん彼女の選択の外へは出ない。(第一幕第二場18:29)

 僧ロレンスも同様に二人の気持ちの重要さを説く。
 (もちろんロミオとジュリエットの気持ちを知った上でだが。)

あなたはかんじん、姫の心をまだ知らないと仰せられたな。
それはどうも筋の通らぬ話、わしは感心しませんな。(第四幕第一場4:159p)

 とはいえ、キャピュレット夫妻は、パリスからの申し出をうけ、ジュリエットを説得しようとするし(第一幕第三場)、最後の最後でジュリエットが結婚を拒否すると、キャピュレットは激怒し以下のように言う。

ふん、小生意気な!有難いも、名誉でないもあるもんか!
その間に、手足の方の用意でもするがよい、木曜日にはな、
どうでもパリス殿と、聖ペテロ教会に行かせるから。
いやだといえば、すのこにのせてでも引きずって行ってやる。
おのれ、この病人面の青びょうたん、白蠟色のおひきずりめが!
…(省略)
ええい、うるさい、この親不孝者のおひきずりめが!
よいか、言っておくが、木曜日には教会へ行くのだ。
いやなら、これから二度とわしの顔を見るな。
黙っておれ、口答えは無用、返事はいらぬ。

 とまぁ激しく怒鳴りたてる。乳母も夫人も心配するほど。
 おそらく、本人たちの意向を尊重しつつも、結婚相手は親が決め、最終的には親が強行突破できるという感じであったものかと思われる。(あくまで『ロミオとジュリエット』の中では)


**おまけ**
 L.ストーンの『家族・性・結婚の社会史』(1977→1991)によれば、英国の貴族・中産階級で結婚の際、本人の意思が尊重されることが定着したのは1660年ごろとされている。また、結婚が愛に基づくものでなければならないという感覚は18世紀末に登場した、というのが社会学の通説。16世紀後半に書かれたシェイクスピアの作品ですでにジュリエットの考えが重視されているようなことが書かれているように思われるが、どうなのだろう。
 もう一つ、ロミオとジュリエットは「一目惚れ」でお互いに惹かれあい、しかも物質的利害ではなく「愛」を重視している(ジュリエットはパリスとの結婚を断る)。この、「一目惚れ」と「愛」の重視はいわゆる「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」というやつだと思うのだが、これも典型的にはヴィクトリア朝時代(19世紀)に現われるとされるのが通説だったはず。「ロミオとジュリエット」はどう位置づけられているんだろうか?
 本作の中でも結婚に際して本人の「心」(なんの訳?)は強調されるけれども、「愛」が強調されるわけではないとみることはできる。ただ、たとえ「心」が「意思」であって「愛」ではないと解釈しても、1660年までには半世紀以上も開きがある。ヴェロナは「進歩的」な街だった(とシェイクスピアに想定されてた)のだろうか。シェイクスピア版のとその素材となったものを比較していくとおもしろいかも(だれかやってるか)。まぁ、常識的に考えれば、ストーンの社会史研究で示されているのは「実際の人々」の行動で、文学作品とは時間差(というか違う展開?)があるということなのかな。
 ただ、文学作品を史料として分析したルーマンの『情念としての愛』でも、「ロマンティック・ラブ」の普及は19世紀とされていたと聞く(読んでない)。たぶんこの研究で「ロミオとジュリエット」は絶対扱われてるだろうから、宿題ってことで。

 ついでに、婚前交渉に関して。なにが近代に特有で、なにが昔からあるものとされているのかは知らない。婚前交渉自体はキリスト教でずっと禁じられてきたと思うのだけれど、モーゼの十戒の「姦淫」に婚前交渉が入るということがはっきりと示されるのはいつごろだろうか。まぁ近代以前なんでしょう。婚前交渉がなかったんだろうな、と推察される場面が本作でもちょいちょいでてくる。ロミオの童貞を強調する場面がいくつかあるし、パリスとの結婚当日に乳母がジュリエットを起こしに行くシーンでは乳母が以下のような冗談をいっている。

お嬢様!もし、お嬢様!ジュリエット様!よくまあお寝みだこと。
…(中略)
ええ、ええ、ちっとでもお寝みなさいませ。
一週間分でもお寝溜めなさるがよい。それもそのはず、いずれ今夜になれば、
伯爵様が大張り切り、お嬢様もお寝みどころの騒ぎじゃございますまいとも。
おっと失礼、…(第四幕第五場1:177p)

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ジョー
 『ジュリアス・シーザー』などと比べたとき、『ロミオとジュリエット』は全体的にジョーク(といっていいのか?)が多い。特に乳母とマキューシオがジョークをうみだす基となっているし、彼/彼女がいる場面では全体的に楽しく明るい。中野氏は「この悲劇はこの二人の性格によってはじめて、シェイクスピア的な人生への深まりを示したということさえできる」といっている。「人生への深まり」かどうかはわからないが、この二人のかもしだす雰囲気が、本編のところどころで感じる、騒がしい、おっちゃらけた感じを作り上げていることは間違いない。仮にこの作品から彼らの独特の性格がなかったらなんとも味気ないものになっていただろう。
 ただし実際は彼らのおふざけは、言葉遊びの面が多く、どうしても翻訳ではそれがわかりにくい。翻訳者もがんばってるけれども、翻訳から50年以上もたっているし、まったくついていけない。けどなにやら楽しげなのはたしかだ。ロミオが結婚したあと、マキューシオとベンヴォーリオに出会い、上機嫌でふざけあうシーンは何を言ってるのかまったくわからないが、シーンとしては楽しげで、好きなシーンの一つである。
 シーンは異なるが、マキューシオ絡みで私が一番好きなジョークは以下のものである。

ベンヴォーリオ:キャピュレットの身内のティボルトの奴めが、ロミオの親父のところへ手紙をよこした。
マキューシオ:挑戦状だな、きっと。
ベンヴォーリオ:ロミオのことだ、応じるぜ。
マキューシオ:文字の書けるほどの人間なら、手紙に応じるのは当然だ。
ベンヴォーリオ:そうじゃない、手紙の主に応じて出る。仕掛けられて引く男じゃない、と言ってるのだ。(第二幕第四場6:85p)

無学を笑いのネタにするものは多いが、
なんとも“シュール”な笑いである。


▲再び「軽さ」と「重さ」

 さて、前半は先のこの二人のキャラクターの持つ明るさのからくる「軽い」印象が強いが、後半にはマキューシオは死に、乳母もあまり登場しなくなるため、明るい雰囲気が消え、「悲劇」へと向かっていく。しかし、この悲劇は「壮大な」「真面目な」「重厚な」ものでは決してない。全体的にやはり「軽い」。最初にロミオの「軽さ」と「重さ」について語ったが、より正確にいえば「軽さ」の上に「重さ」が乗っている。そしてそれは作品全体にも当てはまるように思われる。
 私は本作を一読して「ケータイ小説的だなー」という感想を持ったが、それはこの「軽さ」と「重さ」の関係が似ているからだと思われる。私がこの作品の気に入っているのはこの点である。
 ジュリエットの「美しさ」に惹かれ、それまでの恋をなかったことにしてその恋にのめりこむ。出会ったその日に結婚の約束をし、次の日には結婚。その日のうちに事件によって追放され、二日後にはまく情報が伝わらず二人とも死ぬ。それぞれの展開に「理由」は存在しない。すべて「運命」である。これがスピード感をもって進んでいく。このスピードと上述のジョークが「軽さ」を作り上げているように思われる。この「軽さ」の上に、ジュリエットのしつこいほどの悲しみの表現や、ロミオの死の直前の「重い」長セリフが乗っているように思われる。
 ちなみにケータイ小説『恋空』は、ケータイを通して出会った男女がセックスして、女が妊娠する。しかし事件によって流産する。その後男がガンになり、彼女の幸せを思って女と別れるが、女がそのことを知り後に復縁。最終的に男はガンで死ぬ。というあらすじである。こちらも、流産する必然性も、ガンになる必然性もない。まったくの悲しい運命である(女を遠ざけるのは男の意志だが)。しかし、それがあまりにあっさりと訪れるので「軽さ」が感じられる。エピソードは「重い」が、全体の流れは「軽い」。きわめて『ロミオとジュリエット』的である。
 ロミオとジュリエットは第三幕で会った後、(生きて)会うことはないのだが、デイビット・ギャリックは、ロミオ服毒後ジュリエットが目覚め、語りながら二人とも死んでいく、という筋の改作を作り上げた。中野氏によると、シェイクスピア研究者のエドワード・ダウデンは、シェイクスピアがこの結末の可能性を知っいたら、詩的昂揚の美しさを示す場面を残していただろうと惜しんでいたらしい。仮にダウデンの言うとおりシェイクスピアがそのように結末を作っていたら、ますますケータイ小説へと接続される気がする。中野氏はこれに対して、シェイクスピアの結末こそ「高い悲劇観の昂揚を示す結末」だと述べている。私はシェイクスピアがどのように考えていたかしらないが、中野氏の解釈はまさに「軽さ」によって「重さ」を表現しようとしているという解釈である(私の印象としては「軽い」が強いが)。シェイクスピアをこのように解釈するなら、『恋空』も同様に、その「軽さ」に「重さ」を見取るべきではないだろうか。シェイクスピア研究者の『恋空』批評をぜひ読んで見たいものである。


 私がこの作品を物語として「おもしろい」と思えなかったのはおそらくこの「軽さ」と「重さ」のバランスである。私は徹底して「軽い」か、徹底して「重い」ものが好きだからだ。しかし同時に、この作品を読んで、このブログ記事を書こうと思ったのもその「軽さ」と「重さ」のバランスが「おもしろい」と感じたからだ。読みおわって「あぁーおもしろかった」という物ではないが、考えてみるとおもしろい作品であった。


ロミオとジュリエット (新潮文庫)

ロミオとジュリエット (新潮文庫)



*後記
 書き終わってから思ったが、「重さ」と「軽さ」はシェイクスピアのテクストに内在する要素ではないと思う。一目惚れで激しい恋をして、それゆえに簡単に相手がうつっていくことを「軽い」と感じるのが近代以降の人間の考え方である可能性があるからだ。「おまけ」で書いてように、当時婚前交渉が禁止されていたのだとしたら、そして今のような形で「付き合う」という制度が存在していないのだとしたら、恋とはそもそも一目惚れ以外にありえなかったのかもしれない。ロミオの恋愛のスタイルは、当時としてはそれほど珍しいものではなかったのではないかな、と。ロレンスの嘆きについては、ちょっと考える必要があるけれども。
 同じことはケータイ小説にもいえる。あの恋愛のスタイルがどれほど「若者」の間で普通のものとして受け入れられているのかは知らないが、仮にあれが普通のスタイルだとすれば、あれを「軽い」と表現することはどうにもずれているといえる。
 したがって、上で述べた感想は、前近代の恋愛と、近代の後の(?)恋愛のあり方に対する近代人の「軽い」という評価を前提としたものという点に注意しなければならない(自分が)。